恋しぐれ | ナノ




耳をなぶるような艶を帯びた声が空気を震わせる。ここは衆合地獄に程近い花街だ。昼中でもどこか艶やかな雰囲気の中を楽しげな会話が飛び交い、そこを鬼灯と共に歩んでいると人波の向こう側に馴染みの顔を見つけた。


「あ、檎さんに小判さん」
「おや…またあの2人は往来で騒いで」
「何だかお金の話をしてるみたいですね」


どうやら檎は小判に借りた金を返さずにいるらしく、それを取り立てているようだ。それに対し彼は葉を化かしもせずに猫又に突き返している。激怒した様子の小判は彼の衿を掴みながら、まるで柄の悪い借金取りのような勢いで、のんきに煙管をふかす檎に詰め寄っていた。
悪びれずに長椅子へごろりと寝転がった野干に、鬼灯と顔を見合わせつつ近づいていく。


「貴方一回獄卒としてキッチリ働くといいんじゃないですか」
「補佐の兄さんに嬢ちゃん、久しぶりやな」
「野干の獄卒は人手不足ですし、どうですか?」
「いくら嬢ちゃんに誘われても正直堅苦しいのはのお〜」


確かに公的機関であるがゆえに遊郭の客引きよりはお堅い職なのかも知れない。気質に合わないと手をひらひらと泳がせた檎はだらりと腕を投げ出した。


「そーいや妲己って普通の狐じゃニャイだろ?ありゃ何ギツネ?」
「女狐」
「わあ檎さんうまいですね!」
「そうかのお?」


帝を誑かし傾国させるほどの悪女とされている九尾の彼女はまさに女狐の代表ともいえるだろう。

言い得て妙と言えるその表現はあまり冗談や言葉遊びが得意ではないなまえを感嘆させ、彼女は檎に純粋に感心したようにきらきらと瞳を輝かせる。
なまえの反応を見て照れたように後頭部をかく檎を冷たい瞳で一瞥した鬼灯は、だらしなく身を投げ出す野干のわき腹にねじり込むように金棒を突きつけた。


「全く上手くないですよ大体彼女は妖狐でしょう」
「いででで!ちょ、兄さん堪忍!嬢ちゃんお助け…!」
「ほ鬼灯さんそのくらいに……」
「………」


なまえにあやしつけるように腕を優しくたたかれては鬼灯も大人しく金棒をおろすしかなく。檎の肉をえぐるように力を込めていたそれを肩に背負いなおした鬼灯にほっと息をついた彼は以前教訓として記憶に刻み込んだことを思い返した。
それは補佐官の嫁に余計なちょっかいは出すな、という単純明快なものだ。
もう1度よく言い聞かせるように胸の内で反芻する檎になまえは首を傾げつつ、そういえばと手を打った。


「妲己さんって九尾の狐ですよね?では天狐なんでしょうか」
「そうかも知れませんねぇ」
「何じゃそら」
「妖狐にも位があるんです」


上から天狐、空狐、気狐、そして野狐だ。才色兼備に加え紂王を陥落させるという偉業を成し遂げた彼女は天狐の位を貰っていてもおかしくはないだろう。
それにしても日本は妖怪といえば狐、というようにいささか彼らを神聖化しすぎる傾向にあるようで。狐の天敵とも言える狸は童話でも間が抜けていてあまり良いイメージはないのに、と言う小判の言葉も最もだ。
ああだこうだと話し合いを続ける2人と1匹に、長椅子に横たわったままずぼらを決め込む檎が口を開く。


「あんまり難しく考えなさんな、要は"地獄産の狐は野干"よとりあえず」
「檎さん、いつまでもだらだらしていては駄目ですよ?」
「アイツ狐じゃなくて狸なんじゃニャーか?」
「何を〜失敬な、天下の狐に向かって狸なんぞと…」
「待てい!」


狸をけなすような科白をもらした檎を遮り姿を現したのは、茶釜の中から四肢が飛び出しているような見目の分福茶釜だ。

彼は物語や童話の中で狸よりも狐の方がかしこく粋に描かれていることがどうにも気に食わないらしく、しまいにはカップ麺の販促ソングにもけちを付けだしてしまった。そのぽてっとした小さな手のひらで悔しそうに地面をばしばしと叩く茶釜はよほど鬱憤がたまっていたのだろうか。


「私は天ぷらも好きですよ、お出汁が染み込んでて美味しいですよね!」
「私はあげ好きなので赤いきつね派ですね」
「わっち天ぷら汁に浸す派」


何もカップ麺の好みなど分福茶釜も気になどしていないだろうが、こうした二者択一の話題になるとどうして談義してしまうのは人の常だ。
わいわいと盛り上がる4人をよそに茶釜を背負った狸は憤慨するように檎へと食い下がる。そんな2人の間にまたしても割り込むように声を上げたのは白くやわらかな毛皮を身にまとった不喜処の犬獄卒だった。
シロはただ単に犬の人気を主張したかっただけのようだけれど、小判を巻き込んでわんわんコンコンにゃあにゃあと口うるさく論争し始めた彼らになまえは困ったように笑う。


「なまえさんはどう思う!?犬派!?猫派!?」
「…うーん」
「狐じゃろ、なあ嬢ちゃん」
「そうですねぇ……」
「狸ですよね!?ほら他に引けを取らないくらい愛らしい見た目じゃないですか!」


4匹をぐるりと見回して考えるように頬へ手を当てたなまえに彼らはじりじりと距離を縮めていく。檎だけは鬼灯の目があったのでその場を動かなかったのだが、それでも人気対決の行く末は譲れないものがあった。

動物たちを眺めていてなまえがふと思ったのは鬼灯と共に愛玩しているあの魚のことだった。朱色がちらつく横道へと逸れていく彼女の思考など露知らず、4匹はそれぞれ自身の美点を言い募りながらなまえの決断を待つ。
しばらくの逡巡のあと、なまえはひとつ頷いてからゆっくりと唇を動かした。


「………金魚が活躍する童話がないのが残念だなって思いました」
「ああ、それは私もずっと疑問でした。生け簀に入った金魚が主人公の童話とかあってもいいのに」
「ですよね、どうしてないんでしょう……」
「お前さんら…」
「相変わらずの金魚好きだニャ……」


期待させておいての仕打ちにがっくりとうなだれた彼らを尻目に2人してううんと首を傾げる夫婦。もう勝手に悩んでいろ、と勝負を放り出した猫又や士気を削がれたようにしょんぼりと尻尾を垂れさせた犬とは違い、ひとり高らかに声をあげたのは分福茶釜だ。
彼の背後からゆらりと忍び寄る影に気づくことなく鼻息荒く叫ぶ茶釜になまえは慌てて危険を知らせようとするけれど時すでに遅し。
がつん、とこちらまで痛みを覚えるような音を響かせて狸の無防備な頭部へと強烈な一撃を食らわせた兎はその勇ましい後ろ姿をさらして去っていく。
呆気に取られてぽかんと口を開けていたなまえは見事な瘤をこさえた分福茶釜の頭に気がつくと手ぬぐいを取り出して檎に濡らすよう頼み、うずくまる彼に駆け寄った。


「だ、大丈夫ですか茶釜さん!」
「うう……何とか…」
「芥子さんも悪気はないんですよ、でも…今度言っておきますね」


なまえの言葉に芥子の背中に向かってぱちぱちと拍手を注いでいた鬼灯が耳聡く振り返る。
茶釜の患部に濡らした手ぬぐいを優しく当てているなまえにつかつかと歩み寄った鬼灯は細めた瞳で彼女を射すくめるように見つめた。


「狸のたの字なんか出せばなまえでも危ないですよ、やめておきなさい」
「でもこのままじゃ…」
「なまえ、無茶はしないと再三約束したのを覚えていますか」
「……お、覚えてます」
「私も芥子さんに手荒な真似はしたくないので…わかりますね?」
「はい…」


ぽん、となだめるように頭に置かれた手のひらがゆるゆると髪の上を往復する。その優しすぎる仕草と耳たぶをなぞる低くひそめた声音が小さな子供に言い聞かせるようだ。
手の下でもぞりと動く狸に心の中で謝罪しながら、彼女はこくりと頷いた。鬼灯はなまえが動く度にふわりとたゆたうやわらかな髪を割れ物を扱うような手つきで梳くと、満足そうに息をついたのだった。


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