それは閻魔殿の途方もなく長い廊下を歩いていた時のこと。ぱたぱたと軽やかな足音が耳に届いたと思えば、次の瞬間には片手をやわらかでいとけない感触にぎゅう、と包み込まれていて。そうして聞こえてきたのは彼女たちの幼い声だった。 「なまえ!写真撮って!」 「あっ、童子さん。そんなに急いだら転んでしまいますよ、写真がどうかしましたか?」 「いた!トイレに!」 「いたって何がです?」 「オバケ!記念撮影する!」 ぐいぐいと着物を引っ張る小さな手に自身のそれを重ねながら訊ねると、黒目がちな瞳を一心に向けて訴えた座敷童子たちの言葉になまえの動きがぴしりと固まる。彼女たちが言っているのは数十年ほど前から幽霊が出るという噂の厠だろう。なまえも鬼女たちの間でまことしやかに噂されているそれについては聞いていたので、あの厠は使わないよう心に決めていたのだ。 しかし彼女たちを見る限りでは花子さんが存在するという決定的なものを見つけてしまったらしい。 思わず固く動きを止めたなまえに首を傾げた2人は、興奮冷めやらぬといった具合に彼女の手を引いて今度は鬼灯の元へと向かおうとしているようだ。 「ちょ、ちょっと待ってください2人とも、鬼灯さんに知らせるなら私は行きません、絶対死んでも行きません!」 「でもなまえ死んでる」 「なら問題ない」 「ありますー!」 可愛らしい童女に本気で手向かうことも出来ず、ずるずると引きずられていくなまえ。傍目には子供のわがままに付き合わされる母、という図に見えるのか、すれ違う獄卒たちから微笑ましそうな眼差しすら頂いてしまった。内心で涙を流すなまえの抵抗も虚しく鬼灯が居る裁判所に足を踏み入れてしまう。 「2人ともどうしました?なまえ…何遊んでるんですか」 「遊んでません!あ、2人から鬼灯さんにお話があるそうですよ!では私はこれで…!」 「こら、なまえ待ちなさい」 「はっ離してください!」 2人に両手を捕まえられて引きずられてくるなまえに呆れたような視線をやった鬼灯を見てふと思いつく。座敷童子たちを預けて自分はさっさと逃げてしまえばいいのだ。そうすれば彼女たちも花子さんと記念撮影が出来るしなまえも苦手な心霊現象と関わらずに済む。 そうと決まればと背を向けたなまえの手首を目にも留まらぬ早さで拘束し、力強く引き寄せた鬼灯は童子たちに話の先を促すように瞳をうつした。 「トイレにいた!花子さん!」 「カメラ貸してえ!記念撮影する!」 「…なるほど、それを聞いたなまえが敵前逃亡を図った訳ですか」 「は花子さんは敵じゃありませんし、私はまだ仕事が……!」 鬼灯の腕という拘束具から抜け出そうともがくなまえに、表には出ないものの至極愉しそうな様子を見せる彼を見たお香と閻魔は遠巻きに見守りつつ苦く笑う。どんなに彼女を大切に想っていてもこの程度の弄りならば喜々として参加してしまうのだ、この困った鬼神は。 嫌々をするようにかぶりを振るなまえを半ば無理矢理連行する鬼灯の腕の隙間から顔をのぞかせた彼女は、一番に目に飛び込んできたお香へ懸命に助けを求める。 「お香さん、どうにかしてください…!」 「どうにかしてあげたいけれど…その様子じゃドS心が満足するまで離してくれないと思うわ」 「わかってます!だからお香さんも一緒に来てください!」 「アラ潔いわねェ、アタシでよかったら着いていくけど……」 なまえをいじめることに愉悦を感じている3人組と行くよりもいざとなったらうまく諫めてくれるだろうお香がいてくれた方が随分と心強い。 こうして厠へ挑むことが決まっても小さな抵抗を続けるなまえを連れ、4人は渦中の女子トイレへと足を向けたのだった。 * 「奥から3番目ですね。なまえ、出番ですよ」 「い、いやですってば!お香さん…」 「今日はやけにいじめるわねェ……よしよし」 「チッ」 なまえを中へと押しやる鬼灯の手から逃れ、お香に泣きつくとたおやか手で優しく頭を撫でられる。憧れると共に姉のように慕うお香のやわらかな仕草に甘えていると、鬼灯は不満げに舌を打った。 ふと彼を見やれば厠の敷居をまたぐことなく入り口に佇んでいる。こてんと首を傾げるなまえと同じように座敷童子も疑問に感じたらしく、そこから動こうとしない鬼灯に問いかけた。 「鬼灯様は入らないの?」 「入らないのではなく入れないのです」 「ああ、よく小学生の子たちがトイレに籠城したりしますもんね…」 「ええ、ここを越えたら最後クラスの女子に変態と言われます」 「一瞬で理解するなまえちゃんも凄いけどクラスの女子って何」 敷居の枠を指した鬼灯に合点がいったように頷いたなまえは彼の言いたいことを瞬時に理解してしまったようだ。共にいる時間が長くなるにつれ思考も似てきたのか、それとも以心伝心出来るほどに心の距離が近いのか。 恐らくそのどちらもだ、と2人の間に視線を漂わせたお香はやわく微笑んだ。 そんな会話を交わしていた時、待ちきれなくなってしまったのか蝶結びをした帯を揺らしながら3番目の扉へと歩いていった童子がこんこん、と木造りのそこをノックしてしまった。 「あ、なまえにやらせようと思ったのに」 「もう、脅かそうとするのやめてくださいってば、……」 「…今返事がありましたね」 懲りもせずになまえをけしかけるべく算段を立てていたらしい鬼灯に憤慨すると、座敷童子のノックに子供の声色の返答が鼓膜をなめるように揺さぶる。びくりと肩をふるわせたなまえは一目散に駆け出し、鬼灯の横を抜けようとしたのをまたしても彼に捕獲されてしまった。 厠の様子がよく見えるように背後から押さえつけるように腕を回されたなまえは暫く鬼灯のたくましいそれから抜け出そうと足掻いていたが、鬼神である彼に力で勝てる筈もなく。努力も虚しく鬼灯の腕の中に閉じ込められることになってしまったのだった。 「出てきなよ」 「同じ女子のオカッパオバケだよ、仲間仲間」 「い、いきなり出てこないでくださいね、ビックリ要素はいりませんからね…!」 「こら顔を背けない」 「うううドS…」 「誰がですか」 ドアの向こうにいるであろう花子さんを誘いだそうと語りかける座敷童子たち。その呼びかけに応えるようにぎい、と扉の隙間からのぞいていた暗闇からひとつのまなこが浮かびあがった。 ひっと息をのんで顔を背けようとするなまえの顎を背後からつかみ、きっちり前を向かせる鬼灯はまさに鬼畜だ。 ひょこりと顔を出した彼女は外の世界に導いていた声の主が座敷童子だとわかると、途端に卑屈になってしまいわめくように地獄へと来た経緯を打ち明ける。 どうやら一時期だけ爆発的に盛り上がった彼女の怪談話だが、瞬く間にブームは過ぎ去り廃ってしまった人気にいたたまれなくなったために閻魔殿の厠を拠り所とすることに決めたようだ。 あまりの剣幕に幽霊への恐怖心はすっかり薄れ、意識を周囲に配るまでの余裕を取り戻したなまえは耳をくすぐる吐息にはっと我に返る。改めてぐるりと首を巡らせると、背後から鬼灯の腕に縛り付けられる様はまるで抱きしめられているかのようだった。 それを自覚したなまえは火がついたように顔を真っ赤に染め、彼の拘束から逃れようと身を捩る。 「は、離してください!この体勢恥ずかしいです…!」 「今更ですか?全く、なまえは物事に一直線というか……」 「いいから腕を解いてくださいっ」 「どうしましょうかねぇ」 愉悦をふくんだような眼差しをなまえに寄せる鬼灯は好きな子をいじめる小学生男子のようだ。 ばくばくと胸を打つ心臓が破裂してしまわないかと懸念しながら胸元と腰に回った鬼灯の腕をぺしりとたたく。耳の先まで色づかせたなまえに満足そうに吐息をこぼした鬼灯はゆっくりと腕をほどき、怒ったように唇をとがらせた彼女をたしなめるようにやわらかく頭を撫でた。 不満そうにそっぽを向くその仕草にすらいとしさを感じながら、鬼灯は次に俯きがちに立つ彼女へ視線をうつす。 「ところで、貴方もしかして埴山姫では…もしくは水罔女か…」 「それって厠の神といわれている…?」 「貴方たち何で今時そんな名前知ってるの……」 驚いたように目を見開いたあとぐしゃりと髪を乱した彼女は、鬼灯のにらみ通り埴山姫だと認めた。時代と共に刻々と姿を変えていくトイレに焦りを感じた彼女と双子の水罔女は、流行りに合わせ自身の見目も変化させていったのだと言う。しかしそれが裏目に出てしまい幽霊に間違われ、今更神だと打ち明けることも出来ず…居心地の悪くなった現世を出た、というのが真相だったようだ。 座敷童子たちから励ましを受け、自信を取り戻した彼女たちは再び現世へ戻ることを決意し、これで閻魔殿の厠に出るという幽霊はいなくなったのだった。 「よかったですね、2人が現世に戻れて」 「そうですね、ただ心残りなのは…」 「何か気がかりなことでもあるんですか?」 「いえ、なまえをもっと怖がらせたかったなって…」 「鬼灯さん……」 ふう、と悩ましいため息をもらした鬼灯を上目に睨みあげたなまえは戯れのようにぽすりと彼の背中に拳をぶつける。なまえのささやかな反撃におぼろげに表情をやわらげた鬼灯は今度現世の本当に出ると噂されているお化け屋敷に連れて行こうかと考えながら彼女のつむじを見下ろした。 一方なまえは鬼灯が新たなたくらみを胸に秘めていることなど露知らず、幽霊に対する耐性をつけなければ、とひとり決心したのだった。 |