鬼灯がその広い背中に葛を背負ったのを目にして、なまえはシロの顎をこしょこしょとなぞっていた指先を止めた。つぶらな瞳をきらきらと輝かせて鬼灯の足元に駆け寄っていく彼は非番の度になまえや鬼灯に会いに来てくれる。視察先にも喜び勇んでくっついてくるシロは溌剌としていて、こちらまで元気が湧いてくるのだ。 なまえは鬼灯に向き直ると、微笑みを浮かべて見送る姿勢を取った。 「鬼灯さん、都市王のところへ行くんですよね?」 「ええ、裁判に使用する怪物を届けに」 「皆さんによろしくお伝えください」 「それはもちろんですが、一緒に行けばいいじゃないですか」 彼の言うとおり確かに立て込んだ仕事はない。小さく首を傾げた鬼灯に出来ることなら頷きたいのだが、その背中に負われた葛にどうしても視線が吸い寄せられてしまう。 なまえを脅かすようにがたがたと恐ろしげに揺れるそれに思わずびくりと肩が跳ねる。そんな彼女の様子に片眉をあげた鬼灯は、自身が背負うそれを一瞥したあと意地の悪い色をはらんだ瞳をふっと細めた。 「…ああ、これが怖いんですか」 「そ、そんなことありません。私だって地獄に来てから随分経ちますし、都市王の裁判を見学したこともあります!な慣れましたよ」 「ほう、じゃあ何の不都合もないじゃないですか。行きますよ」 「わっ私少し記録課の方に…」 くるりと方向転換したなまえの細腕を捕まえた鬼灯に容赦なく連行され、内心でしくしくと涙をこぼしながら、彼女は結局都市庁へ赴くことになったのだった。 朧車から地面へ降り立つと、目が冴えるような緑が一面を鮮やかに彩った。都市庁への道を示すように青々と茂った竹が道の脇に群生している。時折さらさらと葉を奏でる風が吹き抜け、すらりとしたその身はたおやかにしなった。 都市王の元へ向かう道すがら、足元をちょろちょろと駆けるシロに都市王の役目について説く鬼灯。その様子が何だか厳格な先生と人なつこい生徒のようで微笑ましく思える。 彼らを見守るようにふわふわと柔和な笑顔を浮かべるなまえは、狭い朧車の中で鬼灯に散々いじめられたおかげで怪物入りの葛にも慣れてしまったようだ。時折思い出したように震えるそれにも動じることはなくなっていた。 そんななまえに面白くなさそうな表情を向ける鬼灯に胸中で舌を出しながら足を進めると、朗らかな笑みをたたえてこちらへ歩み寄ってくるおばあさんがひとり。 都市庁を取り仕切る都市王だ。 彼女の腕に抱えられた大きな舌切り鋏に驚き叫んだシロは豊かな尻尾を丸めて怯えたようになまえの後ろへと隠れてしまった。 「ぎゃああ舌切りの婆さんだぁぁぁぁ」 「こ、こらシロさん」 「失礼ですよ、アレはただ嘘つきの舌をちょん切る鋏です!」 「研いでただけよ、ワンちゃん」 なまえの影に隠れてぶるぶると身を震わせるいたいけな犬の縮こまった背をなだめるように撫でる彼女にもシロの気持ちがわからないでもなかった。 都市王の穏和な性格と笑顔に安堵したものの、なまえもまた、彼女が鋏を持つ姿を初めて見たときは背筋を冷たい手になぶられるような感覚に襲われたからだ。もの恐ろしい思い出を呼び覚ましてふるりと身震いするなまえに視線をうつしたシロは恐る恐る訊ねた。 「なまえさんもアレ持ってる?舌ちょん切るの?」 「ああ…鬼灯さんに無理矢理持たされて、今は家の押入れに眠ってます」 「一度だけ使わせたこともありましたね。と言ってもなまえひとりでは上手く切れなかったので私も手伝いましたけど……今思えばケーキ入刀みたいで愉しかったです」 「血生臭い思い出をさも素敵なものだったみたいに言わないでください!」 鬼灯に半強制的に亡者の舌を切らされたことを思い出すと未だに身体に戦慄が走る。あの腕に感じた生々しい感触はそう簡単に忘れられるものでもない。 紙のように白くなってしまったなまえを、鬼灯は案じるように見つめた。何だかんだ言いつつ心配の色を映し出す濡羽の虹彩におぼろげな笑みを寄せながら、あれも必要な経験だったのだから苦ではない、と自分に言い聞かせる。 「心配してくれるんですか?」 「貴女に嫌われてはこれからどう過ごしていけば良いのかわかりませんからね」 「………」 「何ですかその間抜けな顔。冗談ですよ」 「そ、そうですよね」 鬼灯らしくもない気弱な発言にぽかんと惚けていると、彼は呆れたように肩をすくめた。何だ冗談か、と胸を撫でおろすなまえを横目に鬼灯はひとり目を細め、静かにもの思いに沈む。 もしなまえに厭われたら、と考えただけで胸に灯るほむらが風前にさらされたような思いに陥る。鬼灯が鬼灯ではなくなってしまうような漠然とした恐ろしさに身体の芯を揺さぶられた感覚を覚え、改めて自身にとってのなまえの存在がどれほど大きくていとおしい重みを持っているのか思い知らされたような気がした。 「―礼儀ってモンを知らねーのか!」 思考の波から鬼灯を掬いあげたのはいつの間にか周囲を騒々しく飛び回る雀の姿だった。 葛という名の彼は都市王の補佐官を務めている。小さな身体ゆえに粋がる性分とは裏腹に、仕事はよく出来、ささいな不備も見抜く少しだけ特殊な雀だ。 シロの悪意のない率直な感想に業を煮やした葛が白犬を追いかけ回すのを見かねたなまえがなだめにかかった。何とかその場を収めると息を切らしたシロが首を傾げて宙を自由に泳ぐ小鳥を見やる。 「……ん?ていうか舌切り雀?」 「いや、俺は舌切る雀。"舌切り雀"で舌を切られたのは姪っ子のチュン子さ」 「あのお話に出てくる葛箱は光明箱といって、都市王の裁判に使われるものなんですよ」 「へぇ〜」 光明箱は罪に応じて中身が変わるわけではない。悪人が選ぶ色や形は微妙に違い、悪い心を持っている亡者は怪物入りの光明箱を選んでしまうようにできているらしい。精密な心理テストのようなものだ。 そして実際の判決にそれが使われたことも多々あり、ちょうど見学に来ていたなまえの目の前でおどろおどろしい怪物が飛び出して亡者へと襲いかかったものだから、以来軽いトラウマを植え付けられていた。 「オイところでワン公!お前は何なんだ?鬼灯様となまえのペットか?」 「不喜処地獄の被雇用者ですけど……」 「シロさん、立派にお仕事されてるんですよ」 「何!?お前獄卒か!?」 額にたらりと冷や汗をにじませた葛はシロのことを鬼灯たちに飼われている犬だと思っていたらしい。 確かにシロののほほんとした暢気な気質と少々おつむが足らない部分を見れば獄卒には見えないのだろうけれど、言い訳を並べるにしても彼のことをデブ犬だとかアホ犬だとか、あまつさえ金魚草のことを指して変なペットと評した葛にぴくりと眉を寄せたのはなまえだけではなかった。 ちゅんちゅんと好き勝手さえずり続ける葛に一言言い返そうと口を開くより早く、鬼灯の大きな手が姦しい小さな雀をむんずと掴んだ。 「伏見稲荷大社の名物ってありますよね、アレって…美味しいんですかね」 「串焼き、ですか」 「なまえまでっ……スマンスマンスマ…申し訳ありません!」 いつもなら鬼灯をやんわりといさめる役を負うなまえも今日ばかりは厳しい態度を崩さない。彼の手の中で懸命に身をよじらせて逃れようとする小鳥を助けてくれる天の声が降りかかることはなかった。 都市王になだめられてようやく自由を取り戻した葛はお詫びのしるしだと言って光明箱の上に降り立った。 「いいよ〜、怖い……遠慮しとく…」 「そ、そうですね、それがいいですよ……ほら怪物が出てきたら大変ですし!」 「面白いじゃないですか、開けてみてください。なまえには構わず」 「ちょっと鬼灯さん!シロさんだって嫌だって言ってるじゃないですか、無理強いは良くないで、むぐ」 怪物が怖くてたまらないなまえは必死に止めようと言葉を連ねるけれど、背後から羽交い締めにされ唇を塞がれては説得を続けようにもそれ以上声を発することすらままならず。唇に触れる鬼灯のぬくもりを感じ、こんな状況でもとくん、とあまやかに跳ねる心臓を叱りつけながら結末を見守ることになってしまった。 結局葛の勧めで開けることになった光明箱の蓋がゆっくりとその口を開けていくのを見ていることしかできなかったのだった。 「なまえ、まだ拗ねているのですか?」 「べつに拗ねてませんもん、私は嫌だって言ったのにシロさんに無理矢理箱を開けさせた鬼灯さんたちのことは、これっっぽっちも怒ってなんていませんよ」 「拗ねてるじゃないですか」 機嫌をうかがうようになまえの顔をのぞきこんだ鬼灯を避けるようにふいとそっぽを向き、閻魔殿の途方もなく長い廊下を進む。 先ほどからこれの繰り返しだ。何とか目を合わせようと回り込む鬼灯を彼女はことごとく避け続け、全くとりつく島もない。 実はシロが怪物入りの光明箱を引き当てたあと、なまえは鬼灯の腕の中で数分意識を飛ばしてしまっていたのだ。都市王たちにみっともないところを見せた情けなさと鬼灯に抱えられるようにして目覚めた瞬間の、あのたまらない羞恥が今も身体の奥から込み上げてくる気がして、どうにも素直に鬼灯の謝罪を受け入れる気分にはなれなかった。 怒っている表情を繕わなければ今にも爪の先まで金魚の尾びれのような赤に染まってしまうだろう。 「そう恥ずかしがらなくとも都市王たちは決して情けないなんて思っていませんし、なまえの寝顔は人に見せられないものでもないですから」 「!」 「見せたくはないですけどね」 「……もう、敵いませんね…鬼灯さんには」 足早に歩くなまえの後ろをちょこちょこと着いて来ていた鬼灯はまさに彼女が気にかけていたことをさらりと言い当て、思わず立ち止まってしまう。わずかにうつむいたなまえと視線をからませるように屈んだ鬼灯には何もかもお見通しだったようで、彼女は軽く目を見開いたあと、へにゃりと困ったように笑った。 彼女がまとう空気がいつもの、あのすべてをやわらかく包むような優しいそれに戻ったのを肌で感じた鬼灯はそっと目を細め、2人はどちらからともなく寄り添い歩むのだった。 |