「鬼灯様、なまえ様!こっちですよ」 「はーい、行きましょう」 「ええ」 今日は茄子と唐瓜に誘われ、彼らの実家に訪れることになっていた。母だとか家族だとか、そういうものの感覚がわからないと言った鬼灯の科白を受けて茄子が誘ったのだ。 なまえもおぼろげに両親の記憶があるくらいで、実家に帰るという行為自体にあまりなじみがない。それを知った唐瓜たちに同情のような悲しみの混じったまなざしを向けられたけれど、今はひとりではないから。 "家族"と呼べる大切なひとが隣にいる。 それだけで生前常につきまとっていた孤独がふっつりと消え失せて、なまえ自身は何ら変わりないというのに何だか強くなった気さえした。 きっと夫婦になるというのは、家族になるというのはそういうこと。相手を支え、自分自身を安心して預けられる存在と結ばれるということなんだ、となまえはこちらへかすかにやわらかな瞳を注ぐ黒曜色に微笑んだのだった。 唐瓜に案内されてたどり着いた一軒の長屋は、初めて見たはずなのにどこか懐かしい外観をしていた。あたたかみのある庭ややわらかな土を踏みしめて玄関先まで足を運ぶ。 「狭くて散らかってますけど…」 そう言った唐瓜の手でがらりと開け放たれたそこに見えたのは大量の段ボール箱。通販の品物だろうか、山と積まれたそれにぽかんと口を開けてしまった。 天井に触れそうなほどに積み上げられた箱は絶妙なバランスを保っている。なだれが起きてしまわないだろうかとずれた懸念に首をひねった。 「すごい……よく崩れませんね」 「そこですか?…しかし散らかっている」 「業者?」 三者三様に反応を示すなまえたちをよそに固く握り込んだ拳をふるふると震わせた唐瓜の怒号が静かな家屋にこだまする。どたどたと足音荒く進む彼に続いておじゃまします、と呟きながら家に上がる。 廊下にも行く手を阻む荷物がところ狭しと乱雑に置かれていて、何ともなしに前を行く鬼灯を見つめた。 「何ですか?」 「いえ、初めて鬼灯さんの私室に入った時のことを思い出しました」 「……そんなに散らかってましたっけ」 「私の布団を敷くのも苦労してたじゃないですか」 幼い身体だったおかげでそこまで場所を取らずに済んだけれど、最終的には資料やら何やらを足蹴にしてなまえの寝床を確保していた。 当時を思い出してくすくすと笑みをこぼせば、ふいと視線を泳がせた鬼灯が弁解するように言葉を連ねる。 「あの時はちょうど前日まで徹夜続きで掃除を怠っていたんです」 「案外物に囲まれて眠るのも悪くありませんでしたよ」 「…まぁでも、今はそんな心配をする必要もないですよね、ここに良い嫁もいることですし」 「……そうですよ、大変なんですから」 本来ならば気恥ずかしそうに返事に窮するなまえ。彼女も今度ばかりはほんのりと頬に熱をためながら精一杯の皮肉を込めて返したのだろうが、その言葉も鬼灯にとってはかわいいものだ。 しかし当の本人は言ってやったぞ、とばかりに少し得意げな表情でこちらを見上げてきて。彼女を目にして胸に灯ったこそばゆいような感情には、愛くるしい、という縁もゆかりもないと思っていた単語がぴたりと当てはまってしまい、機嫌良く笑みを浮かべるなまえに降参するように肩をすくめた。 先導していた唐瓜が足を止めた部屋に向かって声を上げているのを見て、あの大量の商品を購入した犯人を見つけたのだろうか、と首を傾げる。 なまえが鬼灯の背中からひょこりと顔をのぞかせれば、唐瓜の腹に重い右ストレートが決まったところだった。 「か、唐瓜さん大丈夫ですか!?」 「あらっ、その人たちは誰?」 「鬼灯様となまえ様に来てもらったんだよ」 「アンタそれ早く言いなさいよォー!!」 鳩尾に入った一発に顔を青ざめさせながらうめいた唐瓜の声に素早く反応した彼女はどうやら彼の姉らしい。奥の部屋へと消えてしまった彼女に鬼灯と顔を見合わせていると、唐瓜に似た顔立ちのその人は中世を彷彿とさせるきらびやかなドレスを身にまとって素早く戻ってきた。 その頬に赤みが差しているのに気がついたなまえは、ああ、とひとり納得する。 鬼灯の存在は知っていても、世間への露出が少ないなまえのことは知らないのだろう。彼女くらいの年頃は結婚も意識し始めるから、とまぶたをまたたかせながら思案した。 「いつも弟がお世話になっております、私服でごめんあそばせ」 「姉ちゃんさっきより乳でかくなってない?」 「こんな家でスミマセン……っつーか鬼灯様結婚してるからな!」 「えっ…」 彼女の間違いを真っ先に正した唐瓜に何も今言わなくても、と思ったなまえはイワ姫の前科を思い出して開きかけた口をつぐむ。小さな勘違いが取り返しがつかないくらい大きく育ってしまう前に摘み取ってしまった方がいいのだろう。 紅潮していた頬が紙のように白くなったのを見てつきりと心を痛ませながら、一歩進み出て彼女におずおずと頭を下げる。 「つ、妻のなまえです」 「ああああスミマセンアタシてっきり独身だと思ってて!」 「いえいえ、この年頃になるといろいろ気になりますよね、わかります」 「恥ずかしい……!」 「何の騒ぎ?」 青くなったり赤くなったりせわしない顔色を落ち着かせるようにふわりと微笑みかけると、彼女は何度も謝罪して再び身を隠してしまった。 その騒ぎにわらわらと姿を現したのはカーラーで髪を巻いた女性と腹巻きを身につけた男性。唐瓜の両親なのだろう、事前に連絡をしていなかったのもあってすっかり気が抜けた格好だ。 その風貌に慌てて背中を押されて彼の実家から押し出されたなまえたちはあれよあれよという間に茄子の家を訪ねることとなった。 「あら〜、茄子ちゃんお帰りなさい!」 「わ、綺麗な方ですね…」 「昔から茄子の母ちゃん綺麗で優しいんです」 玄関先で、ふわふわとした笑顔を咲かせて茄子を迎える小鬼の女性。おっとりとした雰囲気と優しくやわらげられた瞳にこちらもほっこりと胸が緩んでしまう。 自由奔放で傍目から見ても愛情を注がれていることがわかる茄子はやはり一人っ子らしい。そんな彼を安心して送り出せたのは唐瓜が世話を焼いてくれるからだろう。唐瓜は教師と同級生に板挟みにされる学級委員長タイプだ。今もそうだが、子供の頃も苦労したのだろうな、と困ったような笑みを見せる彼を見やった。 暫く戸口で昔話に花を咲かせていると、襖がすっと開き、そこからがらがらと何かが回る音が聞こえてくる。鼓膜を揺さぶるそれは何の音だろうかとそちらを向くと、影がのっそりと姿を現す。 「あ父ちゃんただいまー」 「おお息子よ」 「お、朧車…」 ごろごろ、と車輪を回す鈍い音を響かせながら近づいてきた朧車がふたり。片方は茄子の父で、糸瓜と呼ばれたもう一方は従兄弟らしい。糸瓜をひと目見たなまえはああ、と思いついたように手を打った。 聞いたことのある声だと思ったら、あの於岩の事件の時に民屋伊右衛門を乗せていた朧車だ。顔の違いはいまいち分からないが、声の質は聞き分けられる。 「あの時の!」 「ええ、ご無沙汰しております」 「…よく分かりましたね……」 「糸瓜兄ちゃんはイケメンだもんな〜」 「いえ、それは分かりませんが…」 苦笑をもらしながらそんなやり取りをしていたら、茄子の母に泊まっていってはどうかと誘われ、鬼灯と見交わす。彼らの実家に訪ねるだけだと思っていたものが何やら随分とお世話になる方向へ話が進んでしまった。結局茄子の実家に泊まることになり、家族団欒の輪に加わることになって。せっかくの家族水入らずなのにと申し訳なく思いながら、ぐつぐつと美味しそうに煮立つ鍋を囲む。 鬼灯も心苦しいようで、もてなされることをどうも堅く考えてしまっている。補佐を務める普段どおり、ぴしっと背筋を伸ばして礼儀正しく正座する彼になまえたちは困ったように笑った。 「今日はこの家の家族なのよ」 「礼儀なんて気にせず!」 「遠慮なくくつろいでください」 「皆さんもこう言ってくださっていますし…鬼灯さん、少し肩の力を抜いたらどうですか?」 「そうですか、そういうものですか」 小さく首を傾げた鬼灯はおもむろに立ち上がったかと思えば打ち掛けをくつろげ、ごろりと身体を横たわらせる。持参した小説を手にだらけた様子を見せる鬼灯に口元を引きつらせた唐瓜たち。 彼の隣にちょこんと腰をおろしたなまえは呆れ交じりに肩をすくめながら微笑んだ。 「鬼灯さん、それはどちらかというとだらだらするって感じです…」 「ふむ、難しいものですね……。ああ、家族とくつろぐってもしかしてなまえと居る時のような感覚でしょうか」 「え?」 むくりと身を起こした鬼灯は、淡く目元をやわらげてなまえを見下ろした。すっと差し出したお猪口に、なまえはいつもの癖で清らかに透けた液体をとくとくと注いでいく。刷り込まれた日常の一片を再現するように晩酌をするなまえに、心がやわらかにほぐれて心地が良い。 傍に寄り添う彼女の花がほころぶような笑みと優しい声色にじわじわとゆるむ胸の内側。 家族というのはこういう感覚を与えてくれる存在のことを言うのだろう。 そして鬼灯にとってそのひとは、なまえだ。 すとん、と心に落ちた想いに1度まぶたを伏せ、鬼灯を見つめる彼女に慈しむような眼差しを寄せる。今更ながらに自覚した、たったひとりのかけがえのない家族に感じた狂おしいほどの愛情をひと雫すら取りこぼしたくなくて、すべてを呑み干すように手元でゆらめく水面を一息に呷ったのだった。 |