恋しぐれ | ナノ




煉瓦造りの美しい街並みに整えられた石畳。街頭には針葉樹が植えられ、日本とはまた違った趣のあるその景観をぐるりと見回す。鬼灯とEUに訪れるのは今日で2度目だ。リリスにねだられたという金魚草を風呂敷に包み、彼と肩を並べて通りを進んだ。

ギリシャに行きませんか
そう涼やかな瞳をこちらに向けた鬼灯に誘われたのはつい数日前のこと。ふたりだけでは心許ないからとギリシャに土地勘のあるリリスに案内役を頼み、見返りの金魚草を持って彼女の屋敷に赴いたのだ。


「ギリシャ楽しみですね!」
「はしゃぎすぎて川に落ちないでくださいよ?」
「だ、大丈夫ですよ!鬼灯さんもいるんですから」
「…人任せでは困ります」


なまえの身が危うくなるといつだって守ってくれる鬼灯に少しだけ勇気を出して甘えるようなことを言ってみる。
どきどきとわずかに心臓を高鳴らせながら彼を見上げれば、なまえの珍しい反応にわざとらしく眉をひそめて彼女を諌める鬼灯はどこか嬉しさの交じったようなまなざしをしていた。
それに何となく胸が弾み顔をほころばせると、こつんと優しく頭を小突かれて首をすくめる。


他愛のないやり取りをしながらたどり着いた屋敷の庭にはすでに執事のスケープを従えたリリスが待っており、彼女を見つけたなまえが慎ましく手を振って声をあげた。


「リリスさん」
「なまえちゃん、鬼灯様も、金魚草わざわざ届けてくれてありがとう」
「いいえ、ガーデニングされるんですか?」
「そうなのよ、オバケウツボカズラのガーデンでね!」


鬼灯がリリスに手渡した金魚草は今朝摘んできた新鮮なものだ。風呂敷から飛び出す尾をびちびちと跳ねさせ、ぎょろりとした目玉がついた頭を見てかわいい、と評する彼女もずいぶんと変わった趣味をしている。
オバケウツボカズラ、と呼ばれたそれも彼女のお眼鏡にかなったひとつなのだろう、名前どおりとても大きく、人1人くらいはぺろりと飲み込んでしまいそうだ。
なまえはこれから同じ土を分けあって根をおろすことになるであろうそれを仰いだあと、リリスの腕の中に抱えられた我が子同然の朱色を心配そうに見つめる。


「食べられてしまいそうですね…この子たち大丈夫でしょうか……?」
「彼らも頑強ですからきっとやって行けますよ。……そんな顔をしないでください、かわいい子には旅をさせよというでしょう」
「はい…」
「…………俺は突っ込んだ方がいいのか」


ちょうど通りかかったベルゼブブは金魚とも花ともつかない奇妙なそれに向かって哀愁のにじんだ瞳を寄せる2人に口元をひきつらせる。切に心を痛めているらしいなまえたちは本当に妙なところで似たもの夫婦だ。

仲睦まじいのは構わないが横やりを入れていいのか、なまえに関することには殊更容赦のないあの鬼神に手ひどくやり込められはしないかと懸念渦巻く内心を振り払うように、ベルゼブブは愛しい妻へと意識のすべてを向けた。


「リリス、どっか行くのか?」
「ギリシャ。鬼灯様となまえちゃんとね」
「すみません、リリスさんをお借りします」
「…イヤ俺も行く!」


金魚草に名残惜しそうな視線を投げながらも丁寧に頭を下げたなまえを一瞥して踵を返したベルゼブブは素早く荷物を引きずって戻ってきた。
彼の中では、同性とはいえリリスの関心を集めるなまえも恋敵のようなものとして認識されていたようだ。3人に詰め寄るベルゼブブは蠅の王も形無しの必死の形相をしている。


「リリス、乗り物はハエとドラゴンどっちがいい?」
「ドラゴン」


間髪入れずに答えた鬼灯に苦々しい表情を象ったベルゼブブをよそに、好奇心をそのまま映し出したかのように瞳を輝かせたなまえが身を乗り出した。


「ど、ドラゴン!?乗れるんですか!?」
「………おい、落ちないように見張っとけよ」
「言われなくとも目を離したりしませんよ」


早速呼び寄せたドラゴンの背に乗ってしばしの空中遊泳。びゅうびゅうと肌に感じる風はなまえの髪をなびかせ、上空から見下ろす広大な景色に胸が震えた。加えてドラゴンは馴染みのない生き物なので、つい気分を高揚してしまう。そわそわと忙しなく身体を動かすなまえは湾曲のある竜の背から転げ落ちてしまいそうだ。

一瞬たりとも目が離せない、と呆れ交じりの吐息をふっとこぼした鬼灯はその濡羽色の虹彩に静かないとしさを溶かしながら、なまえの背後から彼女を胸に抱き込むように支えた。


「こら、あまりはしゃぐと落ちますよ」
「だって見てくださいよ鬼灯さん、街があんなに小さいです!」
「生憎貴女で手いっぱいなのでよく見えませんねぇ」
「……!」


2人の距離があまりに近いことにようやく気がついたのか、恥ずかしそうに鬼灯から逃れようともがくなまえを彼は許さなかった。拘束するように腰に回った腕にますます頬が熱くなっていく。
鬼灯の胸板に触れた背中から心音が響いてしまわないかと不安に思いつつ大人しくなったなまえの頭をよしよし、と撫でる彼の仕草は子供にするそれだ。


「また子供扱い……」
「おや、この場で女性として扱ってほしいんですか?なまえにそんな趣味があったとは…」
「な、ある訳ないでしょう!」


からかうようにふざける鬼灯にむっすりと唇を尖らせたなまえ。彼に悪気はない、ただ昔と変わらず何にでも興味を示す彼女が鬼灯にはかわいくて仕方ないだけなのだろう。

抱き寄せられた腕の中で借りてきた猫のように大人しくなった彼女はドラゴンの首にまたがるベルゼブブたちをちらちらと盗み見たあと、そっと鬼灯の胸に身体を預ける。

すり寄るようにもたれかかった彼女に驚きながらなまえを見下ろすと、まろみを帯びた頬が桜色に彩られているのが目に入った。仕事外だということもあり、普段よりいささか大胆に鬼灯への想いをのぞかせるなまえにやわく目元を和らげる。
触れたところから伝わるお互いのぬくもりに、胸にあまやかなものがじわじわと広がっていくのを感じながらそっとまぶたを伏せたのだった。





ハデスの館をぐるりと取り囲むように円上に流れる五本の川。
それぞれを周遊すると冥界を一通り見学できるつくりになっており、観光事業に生かさない手はない、ということで渡し守であるカロンに案内されながら川を下るという形が採用されているらしい。
アトラクションにも似た乗りで観光客を導く彼らに呆気に取られながらなまえたちも川沿いを進んでいく。


「まずは船旅をお楽しみください」
「何だかわくわくしますね!」
「ドラゴンに乗ってからわくわくしっぱなしのくせに」
「う、だって初めてだったんですもん…」
「アラ、じゃあこんな美少年を見るのも初めてかしら?」


首を傾けたリリスは船を水面へ滑らせるカロンを指さした。彼女の華奢な指先をたどると、金髪碧眼の何とも見目麗しい少年の顔がマントから垣間見えて思わずじっと凝視してしまう。
陶器のように白く抜けた肌と頬に影を落とす長いまつげ。

まばたきを忘れたように見入るなまえの視界は唐突に暗い幕で閉ざされてしまった。
自身の目元を覆う武骨な手のひらに触れ、間の抜けた声をあげる。


「あ、あれ?えっと、鬼灯さん?」
「…………」
「あらあら」
「け、景色が見えません!」
「……………」
「鬼灯さん!?」


いくら声を上げようとなまえの目を塞ぐ手が離れることはなく、半ばしがみつくように鬼灯の腕を掴む。面白がるようにころころと笑うリリスの声が響くと、不機嫌そうな声色がなまえの耳に降り注いだ。


「リリスさん……わざとですか」
「だって面白いんだもん」
「なまえで遊ぶのはやめてくださいと言ってるじゃありませんか」
「アラ、アタシは鬼灯様もふくめた貴方たち2人で遊んでるのよ」


知らなかった?と再び笑みをもらした悪女になまえの視界を隠す手が強張ったのを感じて困ったように笑う。
こんな風に翻弄される鬼灯を見るのは珍しい。
さすがリリスさん、といたく感心するなまえは自分が関わっている故に彼の心が揺さぶられているということに気がついているのかいないのか。

そうこうしている内にがたん、とわずかな振動を伝えて船が止まったことを知ったなまえはぽんぽん、と鬼灯の腕をやわらかくたたく。


「あの、そろそろ手を…」
「……仕方ないですね、もう目移りしないと約束できるなら良いですよ」
「し、してないししませんって!」
「本当にカワイイんだからー」
「リリスが楽しそうで何よりだ……」


ようやく光を取り戻したなまえはほっとひと息つくと恨みがましそうに鬼灯を上目ににらみつける。せっかく楽しみにしていた冥界見学なのに、彼のよくわからない行動で楽しさが半減してしまった気分だ。

一方で鬼灯にとっては微塵も怖くない彼女のいじらしい反撃を意にも介さずに見返すと、憤慨したように拳をにぎったなまえが叫ぶ。


「法廷もハデス様の館も見れなかったじゃないですか!」
「私は謝りませんよ、元はといえばなまえがよそ見したからです」
「一体何のことですか、もう!」
「なまえちゃんなまえちゃん、ちょっと」
「?」


ひらひらとたおやかになまえを手招きするリリスに首を傾げて近づく彼女を見た鬼灯は苦虫を噛みつぶしたような表情をしている。
余計なことを言いはしないかと彼女の動向を探るように観察する鬼灯を横目に、リリスは素直に傍まで来たなまえの耳とつややかな唇との距離をそっと縮めた。


「レアな鬼灯様の顔、見れなくて残念だったわね」
「え?」
「妬きもちなんて彼もカワイイところあるじゃない」
「……やきもち?」


一際首を傾げたなまえは懸命に思考を巡らせる。そういえば鬼灯の様子がおかしくなったのは図らずもなまえがカロンに見惚れてしまったあとからだ。まさかとは思うけれど彼に妬いたとでもいうのだろうか。

おずおずとこちらをうかがうなまえに気がついた鬼灯はばつが悪そうにふいっと目線をそらす。何か都合が悪いことがあったときにする鬼灯の癖だ。その反応に胸の内をくすぐられたような感覚が襲い、ゆるゆると頬がほころんでしまう。

申し訳なさと嬉しさに満たされた心を抱えて彼の元に戻ると、憂鬱な思いごと吐き出してしまいそうなため息をついた鬼灯がなまえを振り返る。


「そのたるんだ頬何とかしなさい」
「ふふ、暫くは無理そうです」
「…………行きますよ」
「はい」


にこにこと晴れやかな笑みを浮かべるなまえと彼女から目を逸らす鬼灯は、本来の目的を果たそうと地下の地獄であるタルタロスに降りる。その間もなまえの胸は真綿にくるまれたようにあたためられ、ほぐれた笑みを浮かべてしまった。

地獄には似合わないもの柔らかな笑顔を見せながら冥界を見て回るなまえを目にした鬼灯は苦い思いを覚えながら歩んでいく。
そうしてタンタロスが責め苦を受けている餓鬼道に近い刑や巨大な岩を丘の上に運ぶ刑罰などを見物し、次々と先導してくれるリリスに訝しげなベルゼブブの声が飛んだ。


「さっきから思ってたんだがギリシャに詳しすぎないか?」
「アタシは何回も来てるから!」


夫の問いかけに事もなげにそう言ったリリスはギリシャに訪れた回数を指折り数えていく。ハデスとも食事をしたことがあるという彼女にはさすがとしか言いようがない。
ぽかんとリリスを見つめるなまえに向き直った彼女はにこりと艶やかに唇を引き上げる。


「なまえちゃんもお願いすればハデス様とお食事くらいは出来ると思うわよ?」
「外交に役立ちますかね……?」
「…もしそうだとしても、みすみす1人で行かせたりしませんよ」


わずかでもギリシャとの間に交流を持ちたくて、いささか緊張を感じつつ訊ねる。と、安堵を促すような言葉を囁いてくれた鬼灯になまえは瞳をまたたかせふわっと口元を緩めた。

このひとのために、地獄のために。もし自分が役に立てそうな場面が来たら恐れずに飛び込もう。
鬼灯の慈しむような眼差しを受けながら、なまえがそう固く誓うこととなったギリシャ観光はこうして幕を閉じたのだった。


prev next