恋しぐれ | ナノ




今日は五官王が担当する死後二十八日目の裁判を見学する予定だったけれど、記録課での業務が少し長引いてしまって。すれ違いざまにかけられる挨拶の言葉におざなりな礼をしながらなまえは早足に道を進む。本当は駆け出したいところだけど、五官庁内で走る訳にもいかない。桟橋の先に構えられた重厚な扉の前で胸を押さえ、息を整えてから裁判所へと足を踏み入れた。

どうにか午後からの裁判には間に合ったようで、既に裁きの位置についている五官王と樒に向かって頭を下げる。


「すみません遅れました!」
「アラ、なまえさん。相変わらず熱心ねぇ」
「今日はよろしくお願いします」


瞳を細めて美しく微笑む五官王と、ふっくらとした頬や体つきにどこか安心感を覚える樒。
裁判の見学に訪れたなまえをこころよく迎えてくれた2人に思わず笑みを浮かべると、何かに気付いたようにこちらをじっと見つめた樒はなまえの細い肩に手を置いた。


「なまえさん…貴女痩せたんじゃない?」
「えっ?」
「ちゃんと食べなきゃ駄目よ?」
「た、食べてますよ?むしろ太っちゃったかなと思ってたんですけど…」
「そんなことないわ〜、ねぇ鬼灯様?」


なまえより先に到着し、椅子に腰かけていた鬼灯は小さく首を傾げる。おもむろに立ち上がった彼はなまえに近づき、観察するようになまえの顔をのぞきこむ。
上から下まで鬼灯の視線にやわく撫でられて居心地悪く首をすくめると、彼の大きな手のひらでぎゅむ、と頬を両側から挟まれてしまった。


「な、なんですか」
「確かに徹夜の日もありましたし……以前より少し痩せた感触です」
「……そうですか?」
「ええ、今度美味しい物でも食べに行きましょう」


なまえのわずかな変化も手に取るように分かるらしい鬼灯にくすぐったいような気恥ずかしい想いに駆られていると、場を取り仕切るように五官王が口を開く。


「そろそろ開廷してもよろしいですか?」
「す、すみません!どうぞ」
「では亡者をここへ!」


微笑ましく思うように彼女の口元はゆるんでいたけれど、五官王の前で鬼灯との私的な話を交わしてしまったことに羞恥を感じる。彼女の眼前へと足を進めた亡者と入れ違うようにして、鬼灯と、見学のためにシロやエジプトから態々赴いてくれたアヌビスが並んで座っている椅子へと腰をおろした。

気持ちを切り替えるようにしてふっと息をつく。閻魔庁での裁判とは形式が違うけれど、学べることはたくさんある。集中しなければ。


「わ、なまえさんメモ取ってるの?」
「はい、記録課勤めが長かったからか何だか癖になってしまって」
「あんまり根詰めて身体壊さないでくださいよ、1人の身体じゃないんですし」
「ありがとうございます、大丈夫ですよ」


先ほどの会話が尾を引いているのだろう、その冷静な虹彩に心配の色を見せてなまえを見下ろす鬼灯にくすりと笑って答える。自分は数日間徹夜するのもままあるのに、なまえの体調にはことごとく気を使ってくれる鬼灯には喜んでいいのか叱るべきなのか。

2人のやり取りに何か引っかかるものを覚えたのか、つぶらな瞳をぱちぱちとまたたかせたシロが突然声をあげる。


「……えっ!?まさかなまえさん…」
「え?………あっそういう意味じゃないですよ!?」


おめでた、と小さく小さく呟かれた言葉にぶんぶんと首を横に振る。
1人の身体ではない、という鬼灯の言い方ではそう聞こえてしまうかも知れないが、そんなことはない。
まだまだ余裕も暇もないのに、と考えてひとり頬を赤く染め、あたふたと慌てるなまえの額には恥ずかしさからか焦りからか、じんわりと汗がにじんでいた。


「ほらジャイアニズム的なあれです!」
「失礼な、そこまで利己的ではありませんよ」


ぱたぱたと手を振りながら懸命に否定するなまえに腑に落ちない思いを感じながら鬼灯は眉をひそめる。いずれは、と思っているのだからそう拒否されるとなまえを求めてやまない心に鞭打って彼女を待とうと強く決めた思いが揺らぐではないか。
あまのじゃくというかやはり加虐性のある鬼灯がそんな思考に囚われていることなど露知らず、なまえは彼の隣で高鳴る心臓に手のひらを当てて落ち着かせていた。

そんな彼女とにこにこと穏和な笑顔を浮かべて五官王の脇に控える樒を見比べるように首を巡らせたシロは口を開いた。


「樒様が皆のおふくろさんって感じだけど、なまえさんはやっぱり良いお嫁さんだね!」
「え…っと」
「ああ、分かる気がします」
「アヌビスさんまで…?わ、私もおふくろさん目指してがんばります……!」


獄卒たちへの母のような心配りを忘れず、五官庁の食堂のレシピは彼女が考案しているもの。更に得意料理は唐揚げとハンバーグというのだから樒には敵いそうもないけれど、彼女のように包み込むような愛情を平等に注ぐことが出来たらどんなにいいかと考えることはある。

ぐっと拳を握って宣言するなまえに肩をすくめた鬼灯は彼女の頭を諌めるように撫でた。


「なまえはなまえで皆を支えていると思いますよ。よく相談受けてるじゃないですか」
「…そうでしょうか」
「うん、なまえさんは威厳とかないけどその分親身になってくれるもん!閻魔庁の獄卒たちも嫁に欲かったって言ってたし」
「………どこの誰ですかそいつら」


思いがけずなまえの人望を目の当たりにすることになり、背中に重々しい雰囲気を背負った鬼灯に迫られてシロはひっと息をのんだ。なまえには鬼灯というひとがいるのだから、彼らも本気でそう思って言った訳ではないだろう。
しかし冗談の延長のようなものであっても、はいそうですかと簡単に納得出来ることはなく。

シロを鋭い眼差しで射抜く鬼灯にどうしようかと視線をさまよわせたなまえは、五官王に指示された樒が亡者に近寄っていくのを見てくい、と黒い袖を引いた。


「秤が使われるみたいですよ。アヌビスさんも興味ありますよね?」
「ええ、それはもう。見学出来て光栄です」
「ね、鬼灯さんも」
「……わかりましたよ」


仕方ないとばかりにため息をこぼしたいたいたけな犬獄卒から目を外した鬼灯は裁判の行く末を見守り始める。
それにほっと胸を撫で下ろしたなまえは振り仰ぐほどに大きな秤を見やった。通常のそれよりも何倍もある秤はもちろん腕の先に乗せられた皿も大きい。そこに亡者と岩を乗せ、罪の重さを測るのだ。
がしりと岩を持ち上げて皿の上へ放り投げ、亡者もぽーんと投げ出した樒に感心しながら見つめる。
秤は亡者の方へと力強く傾き、彼の罪の重さが認められた。


「あっ!?岩より重い!?」
「これは有罪という意味ですね」
「ほら今からよく見ててください!私の好きな"五官庁名物"が始まります!」


鬼灯が指し示したそこでは亡者を脇に抱えた樒が聞いているだけで痛いほどの音を響かせて彼の尻を叩いている。それは悪いことをした子供を叱りつける古き良き母親のようだ。
尻叩きの練習をしておいた方がいいだろうか、と首を傾げたなまえの頭の中を覗き見したかのようにこつんと額を小突かれて鬼灯を見上げた。


「妙なこと考えてないでしょうね?」
「か、考えてませんよ」
「…私はそのままのなまえが一番だと言ったつもりなのですが」
「……はい、わかってます」


努力を怠らないなまえには実に健気だが、時たま変な方向へ突っ走るので鬼灯はそれを止める役目も担っている。
鬼灯の言葉にふわりと表情をほころばせたなまえの考えは上手く正されてくれたようで、安堵したように淡く細められた黒曜色にはいとおしさがにじんでいた。
しかし何事にも真摯な彼女には息抜きも必要だろう。休みが取れたらどこへ連れて行ってやろうか、と鬼灯はわずかに弾む内心に思いを巡らせたのだった。


prev next