恋しぐれ | ナノ




さらさらと筆が紙の表面を引っかくささやかな音が執務室に響く。いつもなら隣り合う席に座っている筈の鬼灯は亡者の詳細が記載された閻魔帳をなくしたという茄子と唐瓜、そして鼻のきく芥子と共に現世へとおりている。
留守を任されたなまえは大体の業務を終わらせ、書類整理をしていた。そんな彼女の懐にしのばせてあった携帯端末が不意に着信を告げる。
鬼灯とおそろいで買ったそれを耳元に当てると、心地の良い低音が鼓膜をゆるやかに震わせた。


「はい、もしもし…鬼灯さん」
「ああ、なまえ。今から龍宮へ行くことになったのですが、なまえは行き」
「龍宮城!?い行きます行きます!!!」
「…そうですか、場所は…」


向こう側に見えはしないのにこくこくと何度も頷いたなまえが想像できたのか、呆れの交じったような優しい吐息に耳をくすぐられながら思考をめぐらせる。
少し時間が前倒しになるけれど急を要する仕事はない、今日の分の裁判は先ほど終わらせた、記録課には顔を出したから…うん、大丈夫。
頭の中で何度も確認したなまえは手早く支度を済ませ、弾む胸を抱えながら現世へと向かったのだった。




「………」
「なまえ、口開いてますよ」
「はっ」
「あとにやけてます」
「うっ、気をつけます…」


鬼灯に指定された場所に着くと、待っていたのは海の神につかえる亀の姿をした塩椎という神だった。
浦島太郎のように彼の背に乗って龍宮城へ行くのかと思いきや、波をよけて現れたのは救命シェルターのような球体の小さな潜水艦のような物で。それに乗って海中深くまで潜っていくと、小夜を思わせるほどの暗闇に飲み込まれ、次に視界が開けた途端眼前に広がった光景に圧倒される。
小さく開いた口を鬼灯に指摘され、慌てて引き結んだ唇はゆるんでしまって格好がつかない。

寝物語に聞いていた龍宮城が実在するのは知っていたけど、まさか訪れることが出来るなんて夢にも思わなかったのだ。すっかり感動してふるふると肩を震わせるなまえは鬼灯から寄せられるどこか慈しむような眼差しに気づくことはなく、きょろきょろと忙しなく首を巡らせていた。


城内に足を踏み入れると、どうやら久方ぶりのお客だったようで、わあ、と明るい歓声があがる。案内されるままに入った広間には豪華な食事が所狭しと並べられ、その手厚い歓迎に何だか萎縮してしまいつつ促された席に腰をおろした。


「せっかくですから頂きましょうか……なまえ、なんか緊張してません?」
「え、あ…少し……」
「まぁ私もここまで歓迎されるとは思いませんでしたけど、憧れの龍宮城なのでは?」
「はい、そうなんですけど」


彼らの異常なまでの歓迎ぶりにのまれてしまったのか、首をすくめてうつむくなまえをやれやれ、と呆れ交じりに見やった鬼灯はおもむろに彼女の肩を引き寄せて少し顔を近づけた。
驚いたように目を丸めたなまえの頬がほのかな朱に色づいていくのを横目に、彼の長い指先が瑠璃色の宙を泳ぐ。


「ほら見てください、あれは深海にしか住めない魚です」
「不思議な形ですね……」
「チョウチンアンコウやイカもいますよ、水族館みたいですね」
「ダイオウイカもいますかね!?」


珍しい形の海藻、銀色の鱗をきらめかせる魚の群れ、なまえの好奇心を上手くくすぐるものを的確に指していく鬼灯の指を追いながら目を輝かせる彼女は元の調子を取り戻したようで、日なたのような笑顔を浮かべている。
瞳を瑠璃色に染めるなまえの横顔を見て淡く唇をやわらげた鬼灯は、もう安心だとばかりに彼女の肩から手を離した。


「景色だけではなく料理も食べてみたらいかがですか?」
「あ、はい!………鬼灯さん、ありがとうございます」
「何のことでしょうか」


なまえの緊張を解きほぐすために気を逸らしてくれたこと。ささやかな優しさがぬくもりを伴って、じわじわと心に沁み渡る。
見上げた先の彼は相変わらずの無表情を被っているけれど、その内側に隠されたあたたかな想いのかたまりはなまえの胸にちゃんと届いている。嬉しくて、幸せだと痛いくらいに思えて。
なまえはふわりと顔をほころばせ、鬼灯を見上げたのだった。


料理に舌鼓を打っていると、奥から海の神である渡津見とその娘の豊玉姫が現れた。
彼女があの乙姫様だ。
しとやかな笑みを浮かべる豊玉姫に思わず見とれていると、なまえの視線に気づいた彼女に首を傾げられてしまった。慌てて目を伏せ、はじらいながら口を開く。


「す、すみません、あんまり綺麗なひとなので……」
「まあ、ありがとうございます。貴女は…?」
「なまえと申します、ここはとても素敵なところですね」
「そう言って頂けると嬉しいです。ここは正式名称をワタツミの宮、別名蓬莱と申します」


龍宮は日本と中国の境にあり、いわゆる仙境と呼ばれる伝説の地とされている。
天上に位置する桃源郷と蓬莱では長年金丹の研究がされてきた。つまり浦島太郎が持ち帰ったと言われている玉手箱の中身は金丹であり、それのおかげで彼は長生きをしたというのが御伽草子の真相らしい。

何だか夢が儚く散ったような寂しい思いが胸を占めて、同じくしょんぼりと耳を垂れた芥子の頭を撫でながらため息をもらした。


「ガッカリ……」
「人間の寿命を勝手に増やすのは地獄的に困るんですけどね」
「タイムスリップとか夢があってわくわくしたんですけどね…」


しゅん、と眉を下げて肩を落とすなまえのそのやわらかな髪を梳くように撫でる指先に慰められ少し気を持ち直して鬼灯を仰ぐと、静かにこちらを見下ろす濡羽色の瞳に甘く心臓が鳴る。
ふたりの間でひそやかに交わされる眼差しをよそに唐瓜は不思議そうな声をあげた。


「こんな美人を置いて何でみんな帰っちゃうんだろう」
「確かに不思議ですね…」
「………それは多分姫の正体がサメだってわかると帰っちゃうとか…」
「えっ?」
「ヤダッ!兎さん何で私の正体がわかったの!?」


芥子の一言によほど驚いたのか、気が抜けて元のサメの姿へと戻ってしまった豊玉姫。
大きな頭はなまえがめいっぱい腕を広げても及ばず、鋭い歯が生え揃った口に唐瓜たちは叫び声を発してあとずさる。それに反して鬼灯はかっこいいと彼女を褒め、なまえも臆することなく彼女に歩み寄った。


「こんなに近くでサメを見たの初めてです…!かっこいいですね!」
「女の方は真っ先に逃げてしまうのに……なまえさんも鬼灯さんも変わった方ですね」
「あの、触ってもいいですか?」
「ええ」


なまえが触りやすいようにゆっくりと頭をもたげた彼女の口元に優しく触れる。なまえの手のひらが往復するたびにつぶらな目がやわく閉じるその様に心が和んでいく。
彼女の肌に沿うようにしてなめらかな表面に指を滑らせていると、小さく開いた口から何かが見えたような気がして動きを止めた。
それまで表情をほどけさせながら彼女を撫でていたなまえが豊玉姫の咥内をじっと見つめているのに気がついた鬼灯が小さく首を傾げる。


「どうしたんですか?」
「いえ、姫の口の中に…」
「………これは茄子さんが落とした閻魔帳ですね」
「見つかってよかったですね!」


鬼灯が手を伸ばして掴みとったそれは読める状態ではなかったけれど、これで一件落着だ。ほっと胸をなで下ろしたところで、結構な間龍宮で過ごしていたことに気づく。豊玉姫に別れを告げ、塩椎に海岸までの帰路を導かれながら地に足をつけた時にはすでに日は落ち、空はとっぷりとした夜の闇に覆われていた。
明日の仕事にも響くということで速やかに地獄への道をたどり、寮の前で唐瓜たちに手を振り別れたのち、鬼灯と2人並んで歩く。


「もう夜だったんですね」
「龍宮にいると時間の感覚が狂う気がします」
「タイムスリップですか…」
「…もしそんな物があったとして、なまえは体験してみたいですか?」


何百年もの時を飛び越えて、その先の未来を見るのも好奇心を何ともくすぐられることだけれど。鬼灯との今を捨ててまで時間旅行を楽しみたいとは思えなかった。
彼と寄り添って歩むこの時が何よりも大切なのだと切に思って、ゆるりと首を横に振る。

なまえの胸中を察したのか、そっとこちらへ差し伸べられたあたたかい手のひらに自身のそれを重ねて。長く続く道の上を鬼灯とふたり、互いの体温に想いを注ぎながら進んだのだった。


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