恋しぐれ | ナノ




頭上を彩るのは見慣れた灰色ではなく、胸のすくような青。それを画布に真白を描きながら流れゆくわた雲を見上げ、深く息を吸い込んでから視線を正面に向ける。
コンクリートに固められた地面から生えるビルや騒々しい音をたてて走り抜ける自動車に目を奪われながら、なまえはお香と2人歩いていく。
今日は現世に留まっている亡者を正しく黄泉へと導くために日の下に訪れたのだ。


「そういえばなまえちゃん、今日は着物じゃないのねェ」
「あ…これ、鬼灯さんが選んでくれたんです」
「まァ、よく似合ってるわよ」


以前交わした約束どおり、鬼灯が選んでくれた洋服を身に着けて慣れない固さを足に感じながら歩む。淡い色のカーディガンを羽織り、膝元でひらひらとそよぐやわらかい布地のスカートは少し落ち着かないけれど、鬼灯と顔を寄せあって眺めた雑誌から選んだ服だ。
どうしても気持ちが浮ついてしまってしようがない。

嬉しそうな笑みと、どこか甘みを帯びたあたたかな空気をふわふわと漂わせるなまえにつられてお香もくすりと微笑む。

そうして他愛ない話を交わしながらたどり着いたのは一軒の銭湯だ。
現世で彷徨う亡者たちは覗きをしたりお化け屋敷に出入りしてみたり…と生きているうちには叶えることのできなかった欲望や夢を現実にしようとする傾向がある。そのため銭湯やホテル、美術館やお化け屋敷などに亡者が集まるきらいがあるのだ。

今日はそんな亡者たちを捕獲するために現世へと降り立ったのだった。
ちなみに鬼灯は、獄卒として新人の唐瓜と茄子に諸々の説明をするため少し遅れることになっている。


「本当に銭湯にはたくさんいらっしゃいますね……」
「ホントねェ、死んでも色狂いは治らないのね…」


予想よりも多くの亡者を縄に繋いでひと心地つくと、しゅんと肩を落とす亡者たちにお香と顔を見合わせて苦笑する。
彼らを引き連れて女湯ののれんをくぐればちょうど到着したのか鬼灯たちとばったり遭遇して目を丸くした。


「アラもういらしてたの?」
「鬼灯さん!早かったですね」
「ええ、ご苦労様です。で、貴方達は今からあの世へ逝き裁判を受けます」


きつく縛られた亡者たちをぐるりと見回して、開口一番投げられた平坦な声色に四方からブーイングが飛ぶ。
亡者は年を重ねた者の方が多い上に見た目だけは鬼灯の方が若く見えるので、より不満がふくらんだのだろう。
一歩踏み出した男に容赦無く目潰しをお見舞いしながら彼らを黙らせる鬼灯に、なまえは困ったように笑った。


「あの…スミマセン、ちょっとお願いがあるんですけど」
「はい何でしょう」
「いやその…自宅に行きたいだけなんですけど…」


もじもじ、と言い辛そうに口ごもる亡者を見て、もしかしてと見当をつける。
生前書き溜めていた日記やポエム、パソコンのデータなど、その人個人にとって見られると恥ずかしい物を処分したい、という亡者は大勢いる。
よほど恥ずべきことが隠されているのか、執念で不審火まで起こしてしまう者もいるのだ。もちろんそんなことをすれば罪に加算されるため踏みとどまる亡者も多いのだが。

苦い思いを噛みしめつつ未だはじらう彼を見やると、意を決したように面をあげた。


「日記を処分したいです」
「…これは裁判中もしょっちゅう懇願される訴えですが、キリがないのでダメです」
「ほ、ほら恥ずかしいのは少しの間だけですし、そのうち忘れちゃいますよ!」
「でもなぁ…」
「イヤ、その人の言うとおりだ、下手に帰るな!」


案の定パソコンのデータが、などと堰を切ったように訴えかける亡者たちを懸命になだめても、そう簡単には納得してくれない。
しかし、むしろ心残りがあって家をうろついたせいで見られたくない物が見つかってしまうことだってあるのだ。下手な手を打つより大人しく裁判を受けてくれた方が当人にも良いと思うのだけれど。
と、その考えをまさに代弁してくれるような事例を語りだした亡者になまえは小さく頷いた。この亡者は霊感の強い娘に存在を悟られたようで、そのためにひどい羞恥に見舞われたらしい。

彼の説得力のある体験談のおかげで無理に自宅へ帰ろうとする亡者は踏みとどまり、彼らを無事に地獄へと導くことが出来た。
亡者を獄卒たちに引き渡したのち、とりあえず着替えようとその足で帰路につく。


「ちゃんと思いとどまってくれてよかったですね」
「そうですね、まぁポエムや日記なんかを全国放送で愉しむのも一興ですけど」


加虐嗜好の見え隠れする口ぶりに苦笑をもらすと、ふと何かに気付いたように立ち止まった鬼灯を数歩遅れて振り返る。
どこか眩しそうに目を細めてじっと食い入るようになまえの爪の先まで見つめる鬼灯に、とぎまぎとしながら首を傾げた。

なにかおかしなところでもあるだろうか。

ちょんとスカートの先をつまんでみるけれど、着方が間違っている風にも思えない。


「あ、あの鬼灯さん?」
「…ああ、すみません。着物姿を見慣れているから新鮮で」
「そう、ですか?というか現世に出かける前も見たじゃないですか」


実は現世へと出向く前も家で見せ合いっこのようなことをしたのだ。鬼灯はTシャツにジーパン、というカジュアルな出で立ちだったけれど、彼のむき出しになった筋張った腕や見慣れない姿に心音が大きく高鳴ったのを覚えている。

あの時もどこか熱の入った眼差しでなぶられて身体中から火が出るかと思ったほどだった。今思い出しても頬が淡く染まってしまう。


「その時は気がつかなかったのですが、もう少し長い丈のスカートにするべきでした」
「に、似合いませんか?」
「似合っていますよ、しかし……似合いすぎるのも考え物ということです」
「?よくわかりません」


あどけなくまぶたをまたたかせるなまえにきゅっと引き結んだ口を一瞬ゆるめた鬼灯は、思い悩む彼女の頭をすれ違いざまに軽く撫で付けた。

彼女の白い肌の一片でさえ見られたくないだとか、そんな嫉妬にも似た大人気ない思考など知らなくていい。

そう思いながら、ひと撫でされた髪に手をやってどこかくすぐったそうに顔をほころばせたなまえをいとしさの交じった目で一瞥したのだった。


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