「ん…」 ぼんやりとした視界にうつったのは綺麗な木目が揃う天井。 鬼灯と2人で住むことを決めた家、ここに越して来ていくらか経つけれど、隣で穏やかに息づく鬼灯の気配を感じるだけで未だに心臓が甘く鳴る。 すうすうと寝息をたてる鬼灯を起こさないようそおっと布団を抜け出して、障子を閉めた。 台所に立ったなまえは割烹着の腰紐をきゅっと結び、朝餉の準備に取り掛かる。味噌の甘辛いにおいをかぎながら、ことことと煮立つ鍋の中をのぞきこむ。味噌汁の具合を見つつ卵焼きを器用にくるりと巻いていき、おひたしを器に盛り付けると魚が焦げ付く香ばしい香りが鼻をくすぐった。 甲高い機械音が米が炊けたことを知らせてくれる。 片手には収まらないほどもある茶碗は鬼灯のもの。それよりもふた回り小さい方がなまえの茶碗。仲良く寄り添うそれに描かれているのは陶器の真白を優雅に泳ぐ金魚たちだ。 それにふわりと微笑みを浮かべながら、朝餉の支度が整ったことを確認してひとつ頷く。 もう鬼灯を起こさなくてはならない時間なのだけれど何となく音を立てるのは憚られて、忍び足で廊下を進み、彼が眠っている寝室に静かに足を踏み入れた。 「鬼灯さん、起きてください」 「………」 「朝ですよー、ご飯できましたよ?」 「ん…」 「遅刻しちゃいます」 寝起きが悪いとはいえきっちりしているひとだからなまえが起こさなくても遅刻ぎりぎりまで布団に入っているなんてことはないのだろうけれど、それでも鬼灯を起こす、という何気ない行動が夫婦ということを甘く実感させてくれる。 ずっと続けてきた習慣にさえ幸せを感じさせられる。それがくすぐったくて、何より鬼灯をいとしく思わせてくれた。 ゆさゆさ、と膨らんだ布団を揺り動かすと、くぐもった声と共にわずかに身じろぎをする鬼灯。 掛け布団から出ている彼の手が何かを探すように畳の上をぱたぱたとさまよっているのを見て、くすりと笑みをこぼしながらその武骨であたたかい手のひらに触れる。 なまえのぬくもりを見つけたからか、かすかに寄せられていた眉間のしわがふっとやわらいだ。重ねるだけだった手をきゅっと握られながら、彼のまぶたがふるりと震える。 「……なまえ?」 「おはようございます」 「…おはようございます」 血色のよいまぶたからのぞいた黒曜を見つめて唇にふわりと微笑みを乗せると、鬼灯は何度か目をしばたたかせたあとぐっとあくびをかみ殺す。 気が抜けたようにうっすらと潤んだ瞳は、普段は見せない隙をなまえにだけ露わにしてくれている気がしてじわりと胸があたたかくなった。 そんな彼女をしばらくぼうっと見つめていた鬼灯は、ふと繋がった手に目を落とすと小さく首を傾けた。 「随分積極的ですね」 「ち、ちがいますよ!これは鬼灯さんから…!」 「…………味噌汁の匂いがします」 急な話の転換に何だかはぐらかされたように思えるけれど、むくりと身体を起こした鬼灯の肩に打ち掛けを羽織らせながら彼の傍に落ち着けていた腰をあげた。 鬼灯が支度をしている間なまえは朝食をよそった皿を並べていく。居間へとやってきた鬼灯の、先ほどまでぴょこんと好き勝手跳ねていた髪は真っ直ぐ梳かしつけられ身なりはぴしりと整えられている。 向かい合わせに座り、ふたり揃って手をあわせて。なまえの拵えたあたたかな食事を口にしながら他愛ない話に花を咲かせるのが彼らの常となりつつあった。 朝餉を食べ終わったあと、懐中時計を確認して名残惜しそうに腰をあげる鬼灯。いつもならなまえも家を出て閻魔殿まで肩を並べて歩くところだけれど、今日は久しぶりに貰った非番の日だ。 鬼灯は通常通り仕事に出かけるので玄関まで見送ろうと彼の背を追う。 「あ、お弁当間に合わなかったので後から届けに行きますね!」 「おや、随分凝ったものを作ってくれるんですね」 「休みの日くらいちゃんとしたお弁当にしたくて…」 「いつも美味しいですよ?」 「…ふふ、ありがとうございます」 おかずもご飯も残さず食べてくれる鬼灯を見ていれば不味くはないことはわかるけれど、やっぱりこうして言葉にされると嬉しい。 どうしたってゆるんでしまう頬を引き締めようとするなまえに呆れの交じった息をふっとついた鬼灯は、ふわりとふくらんだそこの輪郭をなぞるように指の背をすべらせた。 我に返ったように目を丸くしたなまえが頬へじわじわと熱をためていくのを、鬼灯は網膜に焼き付けるように見下ろしながら口を開く。 「では、行ってきます」 「は、はい」 「閻魔殿に来るときはくれぐれも気をつけてください。変な輩には着いていかないこと。いいですね?」 「子供じゃないんですからそんな手には乗りません!」 またからかって、と憤慨するなまえの素直な反応を存分に愉しむと後ろ髪を引かれる思いを感じながらも彼女から手を離した。 なまえも鬼灯の肌のぬくもりを惜しむようなまなざしを寄せながら、寂しげにぽつりと呟いた。 「少し離れるだけなのに寂しいのはなぜでしょう…」 「……」 「…あ……ご、ごめんなさい」 「私もですよ」 「え、」 思わず鬼灯を見上げたなまえは、思ったよりもずっと近くにある整った顔にあどけなくまぶたをまたたかせる。 鬼灯は呆けたなまえの頬に垂れた絹のような髪をすくい上げるように持ち上げ、彼女の思考が追いつくのも待たずにそこへ唇を落とした。 壊れものを扱うような優しすぎる仕草と与えられた口づけに、先ほどとは比べものにならないくらい赤く染めあげられた顔をさらしながら口をはくはくと開閉するなまえを、鬼灯は愉悦がにじむ瞳で見やる。 「ですが、たまにはこうして見送られるのも良いものです。そう思いませんか?」 「………し、知りません!!早く行かないと遅刻しますよ!」 ばっと数歩後ずさったなまえに背中を押されて玄関から追いやられた鬼灯は、真っ赤な頬を携えたまま戸口に佇む彼女にくつりと喉を鳴らしたあと歩き出す。 歩みを進める度に左右に揺れる逆さ鬼灯のように、なまえの心も彼によってぐらぐらと揺さぶられるのを感じながら火照った吐息をそっと唇から逃がしたのだった。 * 昼前になって完成したお弁当を手に、なまえは秦広庁の廊下を歩いていた。閻魔殿に立ち寄ったはいいものの、どうやら鬼灯とすれ違いになってしまったらしく、彼がいるであろう秦広庁へと足を運んだのだった。 通路に飾られている骨董品を眺めながら進むと、背中にかかる声があった。 「なまえ様、お疲れさまです。何かご用でも?」 「お疲れさまです、いえ少し鬼灯さんにお届け物を……そちらの方は?」 「ああ、篁様の奥様だそうで」 獄卒が連れていた淑やかな雰囲気を漂わせる彼女はなまえと目が合うと丁寧にお辞儀をする。彼女に倣って頭を下げつつ、唐突な邂逅に内心驚いていた。 顔をあげると、目に入ったのはなまえと同じように腕に抱えられている布巾に包まれた箱。 まさかと思い重箱を持ち上げると、彼女は合点がいったように淡い微笑みを咲かせた。 「まぁ、貴女もお弁当を届けにきたんですか?」 「はい、少し気合いを入れすぎて鬼灯さ……お、夫の出勤時間に間に合わなかったもので」 「こんな偶然あるんですねぇ」 夫という単語を口に出すのに気恥ずかしさを覚えながらはにかむように告げると、彼女はころころと鈴を転がしたような声で楽しげに笑った。 何となく顔を見合わせてもうひとつ笑みを交わすと、自然と肩を並べて歩き出す。 「私、なまえと申します」 「なまえさんの旦那様は秦広庁に勤めていらっしゃるんですか?」 「いえ、普段は閻魔殿の方に。閻魔大王の第一補佐官を務めている鬼灯が私の夫なんです……こう、言葉にすると照れますね…」 「あら!夫からお話は聞いていますよ。何でもとても仲がよろしいのだとか」 「そ、そんなことはないです、普通です…!」 穏やかに瞳をゆるめる彼女に頬が熱くなるのを自覚しながら、それでも嬉しさに顔がほころんでしまう。 ゆったりと歩く2人は地獄には似つかわしくないふわふわとしたやわらかな空気をまといながら、お互いのいとしいひとについて語りあったのだった。 閻魔と秦広王は会食をする予定だそうで、きっとそこに鬼灯と篁も向かったのだろう。案内をしてくれた獄卒に礼を言って、たどり着いた部屋の扉を開けた。 「なまえ」 「お弁当を届けにきました。少しタイミングが悪かったですね…」 「いえ、ありがとうございます」 「って、それ重箱じゃない」 「鬼灯さんはたくさん食べますから」 彼女の細腕いっぱいに抱えられたそれを見て閻魔は目を丸くする。 なまえが差し出した重箱を傾けたりしないよう慎重な手つきで受け取った鬼灯に笑みをこぼしながら隣を見やると、篁も彼女から弁当箱を手渡されているところだった。 二組の夫婦にきょろきょろと視線を巡らせた閻魔は羨むような声色で茶々を入れる。 「何々、奥さんの愛妻弁当なんてうらやましいな2人して」 「主人がいつもお世話になっております」 「ちょっと癪に障るぞ〜、2人とも弁当見せてよ」 「あ」 「ちょっと大王」 ひょい、と2人から弁当を奪った閻魔に鬼灯の咎めるような声が飛ぶが、もう包みを解いてしまったあとでは止めるすべもなく。 あまり大したものは入っていないのになぁ、と皆の前にさらされていくそれになまえはぎゅっと目を瞑る。普段私的な話をあまりしないだけに、上司である閻魔に夫婦らしいところを見られるのはひどく恥ずかしいというか、こそばゆいような感覚を胸に抱えて身を引いた。 「おお、3色おにぎりにからあげに…こっちはデザート?団子まで入ってる!見事に鬼灯君の好きな物ばっかりだね」 「大王、僻むのは止してください」 「ひ、僻んでなんかないよ!バランスも取れてて美味しそうだな〜」 「……もういいでしょう、篁さんの弁当が待ってますよ」 「えっ」 篁を犠牲にして閻魔の手から弁当を奪い返した鬼灯はひとつ息をついて彼らの輪から外れる。 遠巻きに様子をうかがっていたなまえの元へ歩み寄った鬼灯は彼女のほんのりと桜色に色づけられた頬に軽く目を丸くした。 「何照れてるんですか?」 「いえ…仕事っていう名目上で会うのと、つ、妻としてお弁当を届けにくるのってやっぱり違いますね……大王に見られるのもちょっと恥ずかしくて…」 「そこは慣れるしかないですね…例えば非番の度に忘れ物を届けに来て貰うとか」 「わざと何か忘れる気ですか!」 ふっと目を細めてたくらむ鬼灯に諌めるような科白を口にしながらなまえは呆れたように笑む。そうして互いを見つめる瞳にあまやかな熱をしのばせながら、指先をからめあったのだった。 |