数日先に提出期限が迫った書類を手に、なまえは執務室を出た。鬼灯に確認を願おうと見つけたその広い背中に声をかければ、彼は携帯端末を手にくるりとこちらを振り返る。 「鬼灯さん、書類の確認を……あ、お電話中でしたか?」 「いえ、八寒地獄の天候を調べていたんですよ」 「八寒地獄に行くんですか?」 鬼灯に書類を手渡しながら首を傾げる。確かに以前八寒へ挨拶に赴いた時から間が空いてしまったけれど、そんな予定はなかったはずだ。 まぶたをまたたかせるなまえを見やった鬼灯はひとつ頷いて彼女の肩に手を置いた。 「シロさんが雪鬼に会いたいと言うので急ですが明日行くことにしました。もちろんなまえも来てくれますよね」 「え、っと…」 「行きますよね?」 迫るように顔をのぞきこまれて頬をひきつらせながらもこくんと首を縦に振る。 八大地獄に慣れてしまったせいかあまり寒いのは得意ではないのだけれど、鬼灯の射すくめるような眼差しには有無を言わせないものがある。 防寒具用意しなきゃ、とゆるく吐息したなまえを見下ろしてその涼やかな瞳に愉悦の色をひそませた鬼灯は満足そうに口を開いた。 「私、なまえが寒さに耐えている顔を見るの結構好きなんですよ」 「え!?初耳ですけど……!」 「手を繋いでやると瞬く間に赤くなる様を眺めるのもなかなか良いです」 「八寒に行くとやけに視線を感じるなと思ったらそんなこと考えてたんですか…」 きゅっと眉を寄せ、身体を縮こまらせて寒さをしのごうとするなまえの顔や、身を裂くような風雪に耐えきれず縋るように鬼灯を見つめるあの瞳には心揺れるものがある。 噛みしめるように頷く鬼灯をなまえは呆れながら仰いだ。 「鬼灯様って大分緩いけどなまえ様にもSなんだな…」 「好きな子いじめる小学生みたいな感じ?」 「それともまた違う気がするけどなー……」 「…?何のお話ですか?」 「い、いえ!何でもないです!」 顔を寄せあってこそこそと秘密めいた会話をする唐瓜たちに訊ねると慌ててこちらを振り返ってごまかすようにあちこちへ視線を巡らせる彼らになまえは首を傾けた。 何だか自分たちのことを言われている気がしたけれど気のせいだったのだろうか。 不思議そうに2人を見つめるなまえの着物の袖をくいくいと引いたのは、たっぷりとした柔らかい尻尾を持つシロだった。 「なまえさんも行くの!?嬉しいな〜」 「私もシロさんたちとお散歩できるの楽しみです」 「八寒地獄に散歩って…」 「いざというとき貴方がたはカイロになるのでちょうどいいですね」 「あ、俺も非番だから行く〜」 手を挙げた茄子が行くということは、自ずと彼のお守り係を自ら買ってでている唐瓜も道連れという訳で。え、と間の抜けた声をもらした彼も連れ立って八寒地獄へと赴くことになったのだった。 * 雪を運ぶ鋭い風がびゅう、とうなりながら身体を突き抜けていく。こんこんと降りつもった雪は宛ら山のごとく隆起しており、それを縁取るように風に研ぎ澄まされたつららが垂れ下がっている。 芯から凍えるような寒さの中、なまえは前を行く鬼灯の背中を降りつもった雪をかき分けながら追った。しかし幾分か進んだところで道からはずれてしまったのか、踏み出した片足が深い雪に囚われてしまう。 「わっ」 「こら、ちゃんと道なりに進まないからですよ」 「す、すみません…」 すれ違う雪女や雪ん子に気を取られてしまったからだろう。 膝ほどまで沈んでしまった脚では真綿のように締め付ける雪からうまく逃れられずにもがいていると、遅れているなまえにいち早く気がついた鬼灯はその華奢な腕を掴み、力強く引っ張りあげてやる。 踏み固められた雪の上に足をつけるとなまえの唇からほっと安堵の息がもれた。呆れたような声音で注意する鬼灯だが、その眼差しにはどこか慈しむような色が含まれている。 それにくすぐったさを覚えていると、真白に染め抜かれた風の音色に交じってどこからか流れてきた鼻歌が耳に届いた。 「あ、誰かいますね」 「なまえ」 「はい?わっ」 ぼんやりと見えた人影が雪交じりの風に隠されていたため目を凝らすと、鬼灯がその大きな手のひらでなまえの視界を塞いでしまった。 突然真っ暗になった目の前に驚いてミトンに包まれた鬼灯の手に触れるけれど、ぎゅっと肩を抱き寄せられてしまっては大人しく彼の腕に収まるしかなくて。何か見せられないようなものでもあるのだろうか、とほのかに頬へたまる熱を自覚しながら鬼灯に問いかけた。 「あ、あの……?」 「なまえは後ろを向いてここで待っていてください」 「え?でも」 「なまえ」 「…わかりました」 「いい子ですね」 有無を言わせないような声色にこくんと頷くと、手袋を着た鬼灯の手だろう、柔らかな感触がふわりと頬を撫でていく。 なまえが後ろを向いたのを確認し、腕をほどいた彼が遠ざかっていくのがわかった。 降りしきる羽のようなわた雪は吸い込まれてしまうのではと不安になるほど白く、1人でいると何となく寂しさが湧き上がってくる。は、と息を吐く度唇からこぼれる白く濁ったもやが風花にまぎれて溶けていくのを見つめながら、意味もなく息をひそめた。 背を向けてひとり離れた場所に佇むなまえを一瞥して、鬼灯はふっと息をつく。先ほどの鼻歌の主は話を聞くところ八寒の獄卒らしく、春一といった。 湖に穴を開けて身体を浸していた雪鬼は肌をさらしており、なまえの目には毒だろう。初心ななまえのことだから、彼をひと目でも見ればはじらって頬を紅潮させるに決まっている。 そうなると面白くないのは鬼灯の方だ。じりじりと胸にくすぶるものを抱えたまま八寒の長たちに礼儀を尽くした挨拶など、できるか定かではない。 「鬼灯様、何でなまえさんを1人残したんですか?」 「なまえには少々不健全なので」 「………」 口ではもっともらしいことを言いながらも、単に他の男の肌を見せたくなかっただけだろうなぁ、と首を傾げる茄子の隣で唐瓜は苦く笑った。いくら冷徹な補佐官として名が通っている鬼灯でも好いたひとにはかなわないらしい。 そんな思考を読まれたのか、黒曜色の瞳にじろりと睨まれて唐瓜は慌てて姿勢を正した。 他愛のないやり取りをすませたあと、八寒の本部への道案内を春一に頼んだ鬼灯はぼうっと辺りを見回すなまえの元へと歩み寄って声をかける。 「お待たせしました」 「鬼灯さん……そちらの方は?」 「八寒の獄卒の方で、春一さんです」 「おう、アンタもしかして八大の補佐官で鬼灯様の嫁の…」 「なまえと申します」 改めて嫁、と言われて面映さを覚えながら頭を下げると、その飄々とした瞳にいやにじろじろと上から下まで眺められて首をすくめる。 居心地悪そうにとぎまぎと視線を巡らせるなまえを隠すように鬼灯の背が一歩前へ出た。 「なまえに用でも?」 「…長たちの言ってたとおりだなあ」 「長って八寒地獄のですか?」 「いやァ、何でもねーよう」 こっちだよう、と間延びした声で先導する春一にいぶかしむような視線を投げながらも彼に続く鬼灯。不躾な視線を疑問に思いながら鬼灯に寄り添うように足を進めていくなまえは気を取り直したように口を開いた。 「そういえば八寒地獄の名前の由来って面白いですよね」 「そうですね。唐瓜さんたちは何故あただ・かかば・ここばという名か知っていますか?」 「難しい意味っぽいとは思ってたけど…」 実のところ、八寒地獄のあまりの寒さに歯の根が合わなくてあただ、や、かかばといった単語しか言えなかったからだと伝えられている。 イザナミも途中から面倒になってしまって丸投げしてしまったのだろう。氷のつぶては襲いかかってくるし身を突き刺すような冷え込みの中では無理もないと思うけれど。 「見えてきたよう、アレが八寒の本部」 「雪鬼が整列してる?」 「今日は獄内雪合戦の日なんだよう」 春一の科白に小高く積もった雪の丘から眼下を見ると、列を乱さずきちんと整列する雪鬼たちの姿が目に飛び込んできた。 雪合戦なんて八寒ならではの行事だ。八大でいう運動会みたいなものだろうか、とわずかに弾む胸を押さえながら下をのぞきこむ。 「八大の一行よう、八大代表として参加してけよう」 「そんな暇はちょっと…」 「楽しそうじゃないですか、鬼灯さん。少しくらいなら……ね?」 「オウ、アンタ話わかるなあ。ちなみに玉はこれ」 「参加します」 鬼灯をうかがうように首を傾げたなまえと、春一がどこからか引っこ抜いてきた玉として使うらしいつららを交互に見やって素早く了承した鬼神をよそに、巻き添えを食らった唐瓜たちは口元をひきつらせたのだった。 |