夫婦。 寄り添い支えあい、慈しみあいながら共に歩いていくことを約束した2人の間に生まれる関係。しかしお互いを大切に想いあえる者同士が結ばれないことも時にはあるものだ。今なまえが目の前にしている彼は、明らかに後者に分類される人物だった。 白装束を身に纏い、髪をひとつに束ねて髷にしている彼は名を正太郎といった。 今日鬼灯が開くことになった講演会は彼の堕ちた吼吼処が題材だったため、正太郎の妻、磯良を始め夫に裏切られ恩をあだで返された女性たちを招いたのだ。 それが裏目に出たのか悪者のように語られたことが気に食わなかったのか、鬼灯に向かって異議を申し立てる正太郎の声が辺りに響き渡る。 「さっきから聞いてりゃ一方的な物の見方しやがって……そいつら自己弁護激しいだけじゃねーか」 「あの方は確か磯良さんの…」 「なまえ、下がっていなさい」 ずかずかとこちらへ向かってくる正太郎からなまえをかばうように鬼灯が一歩前へ出た。彼の広い背中に隠れるようにして顔だけのぞかせると、横からゆらりと姿を見せたのは正太郎の元妻である磯良だ。 彼女を目にしていっそう口汚くわめき散らし始めた彼のあまりの言いように、思わず鬼灯の袖をぎゅっと握ってしまう。 辛いのは彼だけじゃない、愛するひとに裏切られた磯良もまた身を引き裂かれるような想いをしたはずなのだ。それなのに今もなお彼女へ利己的な恨みを募らせる正太郎にやるせない思いがこみ上げる。 悲しげに顔をゆがめるなまえを静かに見下ろした鬼灯は、力を入れすぎて白く染まる彼女の指の節に目をとめた。 「なまえ、気持ちはわかりますが力を抜いてください。大丈夫ですから」 「…でも……」 「ほら、爪が食い込んでいるでしょう」 優しくなまえの指をさする鬼灯にゆるゆると手を開くと、彼女の爪で傷つけられた肌が露わになっていく。血が出ていないことを確認した鬼灯はいたわるようにそこへ指先をすべらせ、なまえの頭をぽん、とやわく撫でた。 鬼灯の眼差しにひとつうなずいて目を伏せると、唐突に騒々しくがなりたてていた正太郎の声がくぐもった。かと思えば痛みによる叫びが耳をつんざき、慌てて顔をあげれば彼の舌をエンマではさんで容赦なくぎりぎりと引っ張る鬼灯が視界に飛び込んでくる。 「ほ、鬼灯さん!?」 「声がでかい」 「お前何考えて俺の話聞いてた!?」 「よくしゃべるなぁ…って」 正太郎の言い分を全くといっていいほど意に介さない鬼灯は眉ひとつ動かさないまま彼を責める。 呆気にとられて鬼灯たちを眺めていると、ちょんちょんと肩をつつかれる。振り向いた先に佇んでいたのは長い髪をふたつに束ねたイザナミだった。彼女と於岩もまた不義理な行いをされた過去を持つため、この講話会に召喚されていたのだ。 面白そうに目を細める彼女に首を傾げると、秘めごとを明かされるように耳元へ唇を寄せられた。 「あんなことを言っておるが、黙らせたのはなまえのためじゃろうな」 「えっ?」 「お前さんあやつの言葉に傷ついておったじゃろ?愛する妻のため、というやつか」 「……鬼灯さん…」 イザナミの言葉に胸の辺りがあたたかい感情で満ちていくのを感じる。そんなささやかな気遣いがひどく嬉しくて、何度もこの人が好きだと想ってしまう。なまえの中に昔と何ら変わりない恋心を繰り返し芽生えさせる鬼灯がたまらなくいとしかった。 正太郎に向けて科白を重ねる鬼灯の横顔を見て口元をほころばせるなまえを一瞥したイザナミはふっと口角を持ち上げる。 地獄には似つかわしくないこの気の優しい娘は鬼灯に支えられ、時には彼を支えてこれからも2人で軌跡をしるしていくのだろう。 まだ確かに互いを想いあっていた頃のイザナギを思い出してしまうのは彼女に感化されたせいか、とイザナミはやわらかい息をついた。 一方で、鬼灯に呵責されたからか先よりは気が落ち着いたらしい正太郎を眺めて於岩が呟く。 「磯良さんアンタの旦那顔はいいねぇ」 「ああ、そうですね、顔はね」 「伊右衛門様も男前なのさ」 「何でしょうねぇ、そういうもんなんですかねぇ」 「………」 「何でこちらを見るんですか」 「い、いえ」 思わずちらりと瞳をうつしてしまったのを目敏く気づいた鬼灯に軽く睨まれて顔を逸らす。じい、と穴があくかと思うほどの視線を背中に感じながらはぐらかすような乾いた笑みをもらした。 見目が整っている男性ほど裏切りやすいということだろうか、と一瞬でも考えてしまった思考を振り払うように鬼灯に向き直る。 「……何か変なこと考えてませんでした?」 「か、考えてませんよ!」 「なまえは私のことを信じてくれていないんですか、悲しいですねぇ」 「そんなことないですよ!ちょっと魔が差しただけ、あっ」 「…また要らない心配を……愛情表現が足りないんでしょうか?」 彼の誘導尋問のような語りについ口が滑ってしまって、口元に手をあてたなまえは鬼灯からじとりと湿っぽい視線を投げられた。 それに曖昧に微笑んでいると、気を取り直したように小さく首を傾げた鬼灯は冷淡な瞳に甘い熱をひそませてこちらを見つめる。言葉どおり愛情表現のつもりなのか、その愛でるような眼差しにほんのりと頬を赤く色づかせたなまえは鬼灯から目を逸らしふらふらと宙にそれを巡らせた。 「まァこの2人の場合は心配いらないと思うけどねェ」 「…しかし亡者に聞きたいんだけど、何で現世の怪談って女の幽霊が多いの?」 「そ、そうですね不思議ですね!」 「……」 磯良や於岩を横目に見た獄卒の素朴な質問に同調するように頷くと、隣から鋭い黒曜色の瞳に頬をつつかれて笑みが引きつった。 諦めたようにひとつ息をついた鬼灯は獄卒たちのささいな疑問に目を向けてやる。 暗闇の中に男女が1人ずついるという状況を思い描いてみるとどうしても女性の方が恐怖心を煽られる。何となくしっとりとした怖さがあるからだろうか、となまえは疑問符を浮かべた。 「女の方が怖いからじゃねぇの?」 「何で?」 「年が若いと女性の方が怖く思えるのでは?中年なら…」 「う、うーん、私は中年の方でも女性のほうが怖いです…」 何を言われるか想像もつかない、という人間性に対する恐れがある。 どちらにしても女性は執念深いというイメージがあるため変に勘繰ってしまい、不明瞭な恐怖感が掻きたてられるのだ。 「女なんてバカなものじゃ」 「自分自身も滅ぼしちまったよねぇ…醜い恨みが己を変えたのさ」 「元は全員美人だったのにねぇ…」 ふう、と感慨深そうに嘆息した3人には生前の美しさの面影はない。しんみりと肩を落とすなまえを余所に、正太郎は素知らぬ顔で眉をあげた。 その姿になったのは自分のせいではないとぼやく正太郎に青筋を立てたイザナミたちはさすがに琴線を打ち切られたのか、恐ろしい形相で彼に襲い掛かっていく。 そんな彼女たちを更に煽動する鬼灯に困ったように笑うと、こちらへ目を移した鬼灯はもの珍しそうになまえを見下ろした。 「止めないんですね」 「ちょっと懲らしめてもいいかな、なんて思いまして」 「…ま、私も貴女に辛い想いをさせないよう努めますよ」 「ふふ、これからもよろしくお願いします」 喧騒を横目に穏やかな空気をゆらめかせながら互いを見交わす2人は、周囲に隠れるようにしてひっそりと未来を誓いあったのだった。 |