恋しぐれ | ナノ




漆塗りの盆に乗せられたつるりとした陶器の湯呑みには、若草色の水面が揺れている。鼻をくすぐる茶のいい香りにゆるゆると頬をほどけさせながら、なまえは歩みを進めた。


「なまえ」
「鬼灯さん、唐瓜さんに茄子さんも。見学ですか?」
「ええ、少し覗かせてもらいますね」
「何のおもてなしも出来ませんが…ゆっくりしていってください」


背中にかかった声に振り返ると、葉鶏頭に連れられた鬼灯がひらりと手を振った。彼の背後には唐瓜と茄子の姿もあったので、大方記録課の見学にでも来たのだろう。
穏やかな微笑を形づくったなまえが持つ盆に目を留めた茄子は首を傾げた。


「それ何ですか?」
「お茶です、皆さん根を詰めてしまうので休憩がてら煎れるんですよ」
「なまえさんのおかげで大分発狂する輩も減ったよ」
「発狂!?」
「発狂はちょっと言い過ぎですよ」


偶に意識が色々な世界へ旅立ってしまうひとがいるくらいで発狂というほどではない、と不穏な科白を口にするなまえに唐瓜たちはさあっと血の気を引かせる。
記録課はそんなにも過酷な部署なのか、とすっかり怯えてしまった2人は鬼灯にそっと耳打ちした。


「なまえ様そんな部署にいたんですか!」
「確かに記録課の仕事は過重なものが多いですが…」
「よ、よく補佐官と兼任出来ますね…」
「今は補佐を主に務めてもらっていますので、記録課にはヘルプに入るくらいなんですよ」


こそこそと話し合う彼らにこてんと首を傾けるなまえに気がついたのか、鬼灯は彼女を促して歩みを進めた。
彼女は疑問を持ちながらも、背に添えられる手のひらと唐瓜たちの取り繕うような笑みに急かされるようにして亡者の行いを記す記録室へと足を踏み入れる。

墨と紙のにおいが鼻をかすめ、そのどこか懐かしい、懐郷の念にかられるようなそれになまえはふっと唇をほころばせた。
葉鶏頭が唐瓜たちに記録課について説明を続けるのを横目に、ほわっと湯気ののぼる玉露を作業を続ける彼らに手渡していく。


「よろしければお茶をどうぞ」
「なまえ様…いつもありがとうございます」
「熱いですから気をつけてくださいね」
「なまえ様、こちらの方を少し手伝ってくださるとありがたいんですが…」
「はい、手が空いたらお手伝いしますね」


ひとりひとりにあたたかな労いの言葉をかけ、急な申し出にも慣れたように対応するなまえに唐瓜たちは感嘆の息をもらす。せわしなく動き回るなまえへ鬼灯が向ける瞳もどこか優しげだ。
彼女を見守っていた葉鶏頭は肩をすくめながら口を開いた。


「鬼灯様に取られるまでは彼女が記録課の癒しだったんですけどね」
「お返しするのは無理なので、やっぱり医務室とカウンセリング室を常設しますね」
「何故だ!カウンセリングなんかいらない!」


文字に精神すら圧迫されるその感覚が心地よいと訴える葉鶏頭はよほど書記素に魅せられているらしい。記録課は、葉鶏頭のような真面目で几帳面、加えて凝り性の性質の獄卒には適正のある部署なのかも知れない。
しかし、カウンセリングは過言にしても休めるような休憩室は必要だとなまえも思う。


「医務室においては賛成です」
「なまえ」
「私も始めのころは文字がゲシュタルト崩壊なんて当たり前でしたし…文字が浮かび上がって見えたときはどうしようかと思いました」


新人には辛いものがある、と言うなまえは遠い昔のように思える新人時代を思い起こした。
字を書くのは嫌いではなかったけれどあまりの量の多さにくじけそうになったことも少なくない。
それでも何とか持ちこたえられたのは、裁判に用いられる重要な記録を記すことで陰ながら鬼灯を手助けしている気がして、それを動力に動いていたからだ。いくら気力を削られても彼を想えばあたたかなものがふわりと胸ににじみ、自然と力が湧いてきた。

不純な動機に気恥ずかしさを覚えてそっと鬼灯を見上げると、なまえの視線にさとく勘づいた彼と瞳がからむ。


「どうかしました?」
「いえ、……若かったなぁと思ってただけです…」
「?なまえは昔から変わりませんよ」
「……」


なまえの肌を確かめるようにひと撫でした鬼灯に、頬へほのかな熱がうまれる。
容姿だとかそういう意味ではないのだけれど、意図せず鬼灯に褒められるとやはり嬉しいもので。ふわふわと浮き足立つ内心を叱りつけるように胸元を押さえた。

実際のところなまえの容貌はうら若い娘のようだ。小判が褒めたたえたように今も変わらず愛らしい見目かたちをしている。あの猫又の場合はおべっかなのだろうが。

鬼灯がそんなことを取りとめもなく考えていると、思考の波を裂くかのごとく呻くような声が鼓膜を揺らす。
ぐるりと辺りを見回せば獄卒のひとりが突然狂ったように笑い出している様が目に入った。
鬼灯たちが思わず凝視している間にも彼の周囲の同僚たちは眉ひとつ動かさずに男を移動させ、冷静に対処している。その手慣れた様子に記録課では珍しいことではないのが伺えた。

が、どう見ても異常事態だ。唐瓜たちは驚いて顔を青ざめさせているし、鬼灯も素早く携帯電話を取り出す。


「すみません救急車を一台」
「大丈夫ですよ、大体15分で元に戻りますから」
「そうですね。私も介抱しますから救急車は呼ばなくても…」
「……なまえが心配になってきました」


話に聞いていたとはいえ、聞きかじったような情報では記録課の実状など知らないようなものだったのだと鬼灯は痛感した。

なまえは考えるように眉間にしわを刻む鬼灯に心付くと、彼へ安心させるような微笑みを向け、彼の大きな手のひらを両手でくるむように握る。
じわじわと伝わるぬくもりと包み込むような笑みに絆されそうになりつつも、鬼灯はしかめた表情を崩さない。

寄せられる黒曜の虹彩になまえを想う色を見て取り、どうしようもなく胸に芽生えるくすぐったいような嬉しさに頬がゆるんでしまう。


「何年ここで仕事してると思ってるんです?大丈夫ですよ」
「ですが、それとこれとは…」
「ふふ」
「…何にやけてるんですか、生意気ですよ」


やわく頬をつままれそうになってその指先から逃げながらくすくすと笑いをこぼす。
こうして偶に見え隠れする鬼灯の想いを感じるとたまらなく幸せだと思えてしまう。なまえに心を砕いてくれる鬼灯には申し訳ないけれど、そんな小さなことに幸福を思うことを許してほしい。

ゆるりと表情をほころばせるなまえに呆れといとしさの交じったため息をついた鬼灯は彼女の頭をいたわるように撫でた。


「無理はしないこと。いいですね?」
「はい。その代わり、鬼灯さんも今日は徹夜なしですよ?」
「…わかりました。……では私たちはこれで」


鬼灯に注意するように人差し指を立てたなまえに首を傾げられて仕方なく頷く。心残りがありそうな表情をしてしばらくなまえを見つめた鬼灯は切り替えるようにひとつ吐息すると、唐瓜たちを促して記録室を後にした。

彼らの背を見送っていればその眼鏡の奥に親心が染みたような瞳をのぞかせながら、葉鶏頭がなまえを見下ろす。
傍目からもわかるほどに互いを思いやる2人を眺めていると彼の心にもあたたかいものが触れるようだった。


「いい夫婦になったな」
「…葉鶏頭さんにそう言われるととても嬉しいです」


彼の言葉に心臓に灯った甘い熱が全身へと巡っていく。鬼灯への想いをあふれさせるように笑みをこぼすと、それを目にした葉鳥頭も淡く口角を持ち上げたのだった。


prev next