恋しぐれ | ナノ




看守するように空を仰ぐなまえの瞳が捉えるのは、罪人を護送する龍の姿。逃亡の末鬼灯の手によってお縄についた民谷伊右衛門の取調べが終わり、これから裁判にかけるために烏天狗警察から秦広庁へと移送されるのだ。

天を駆けていく龍から視線を外し、会話を交わしている鬼灯と義経の元へ近づく。


「ここへ来たついでに烏天狗さんの寮など視察したいのですが…」
「私も1度見てみたくて、ついて来てしまいました」
「構いませんよ、どうぞ」


こうしている間にも執務室には職務が山と積み上がっていくのだろうけれど、徹夜漬けになることよりも烏天狗警察の寮の見学になまえの心は傾いたのだった。


「では寮長の弁慶を紹介しますね」
「えっ!?」
「弁慶さん…ですか!?」


寮長を紹介すると言って携帯を取り出した義経が口にしたのはかの有名な武蔵坊弁慶の名。義経が烏天狗警察にいることからてっきり同じ警察の職務に就いているのかと思っていたのだが、まさか寮長をしているとは思わなかった。
驚いてまぶたをまたたかせながら顔を見合わせる2人の気を逸らしたのは大きな足音。


「あっ来ました来ました」
「お呼びですか若!」


義経が言葉を続ける間もなく響くのは、ごちん、という何とも痛々しい音。
主からの呼び出しに気が急いたのか、駆け足でやってきた弁慶を迎え入れたのは鬼灯によるむこうずねへの強打だったのだ。

声もなく地面へと崩れ落ちる弁慶に義経が駆け寄り、なまえは鬼灯に声をあげた。


「鬼灯さん!」
「何をなさいますか!?」
「いや、泣くかな?って…」
「そ、それはちょっと私も気になってましたけど…」
「なまえさんまで!?弁慶は何でも我慢しがちな性格なんです、試さないでください」


ごめんなさい、と頭を下げたなまえはちらりと弁慶を見やる。まだむこうずねが痛むのか涙をにじませながらふるふると震える彼に、魔が差してしまったとはいえ好奇心をくすぐられたことを申し訳なく思った。
寮長をしている彼は料理の腕がいいらしく、家庭的な破戒僧だ、と半ば感心していると、案内された烏天狗舎の様相にすっかり圧巻されて小さく口を開けてしまう。


「なまえ、口開いてますよ」
「あ、すみませんつい……すごいですね、面白い造りです」
「鳥籠ですね」
「そう見えますか」


窓には面格子が填められ、建物から突き出すように鳥籠がいくつも設置されている。寮全体が大きな鳥籠のように見えて思わず感嘆の声がもれる。
入り口はふたつあり、烏天狗たちのために上空から入ることができる構造になっているようだ。
中庭もあり、自然が身近に感じられるそこを見学して回っていく。


「わぁ、鬼灯さん見てくださいヒナですよ!」
「おや可愛いですね」
「烏天狗警察の小・中・高等学校もあるんですよ」


ぴぃぴぃ、と小さな巣の中でまだ羽根の生えきっていないヒナたちが母鳥を求めるように鳴いている。ふわふわとした夜色の羽毛に包まれた烏のヒナはとても愛らしく、つぶらな瞳を見ているだけで頬がほころんでしまう。

ふと隣を見れば、動物好きの鬼灯も普段よりいくらかやわらいだ表情をしていた。何だかどちらも可愛らしくてふふ、と唇の端から笑みをこぼすと、彼に小さく首を傾げられてそれがまた胸の奥をくすぐる。


「何です、にやにやして」
「いいえ、可愛いなぁと思っただけです」
「……言っておきますけど、貴女も大概ですよ」
「え?」


淡々と言葉を落とした鬼灯がこちらに向けた眼差しは、あのヒナたちに寄せたものと同じくらいやわらかなもので。
何となく気恥ずかしくなってほのかに熱をためた頬に両手をあてていると、ひとりの烏天狗が翼をはためかせて降りてくる。


「あ義経公、今日一杯どうですか?皆さんも一緒に」
「おやどうします?」
「いいんですか?忙しいんでしょう?」
「そうですね、あまりお酒は得意じゃないですけど…お忙しくなければご一緒したいです」
「そりゃ忙しいですけど…地獄でしょうもない通報される人もないですし現世よりは余裕あります」


警察ともめ事を起こして有罪の判決が下されれば鬼でも呵責されるのが地獄の掟だ。ゴキブリが出たとか道を尋ねただけで通報されるなどということは滅多にない。

まだ余裕はあると話す義経の誘いをありがたく受けることにしたなまえたちがいざなわれたのは、烏天狗御用達の居酒屋だった。
特殊なつくりをした其処はなまえの躯幹よりもずっと太い大木の枝々を椅子代わりに腰掛けるため、ある程度慣れを必要とするようだ。


「案外高いですね……」
「慣れるまでは私も怖かったですよ」
「なまえ、危険ですから酒は飲まないように、あともう少しこちらに寄りなさい」
「は、はい」


ここで酔って倒れでもしたら地面まで真っ逆さまだ。嫌な想像をしてしまったなまえは腰を浮かせないように枝を移動して鬼灯の傍に身体を寄せる。
ふらふらと下をさまようなまえの視線を奪うように肩を抱き寄せた鬼灯は、ぐいっと酒を呷りつつ彼女を見下ろした。


「下を向くとますます怖くなるだけですよ、前か空でも見ていなさい」
「そそう言われても見ちゃうんです」
「何なら私を見ていてくれても良いですけど」
「もっと出来ませんよ!」


酒などひと雫も口にしていないのに肌を桜色に色づかせるなまえを見やる鬼灯の瞳は愉しげで、少々癪だ。そんな表情も好いているから何とも言えないのだけれど。

ひとつ下の枝では弁慶が天狗たちからむこうずねをつつかれてからかわれている。仲がよいことがうかがえるやり取りを微笑ましく思いつつ眺めていると、どこか複雑な顔をした弁慶がぽつりとつぶやいた。


「元は私を介して友人になった同士なんですけど、"互いに面識がなかった友人同士が意気投合しちゃって自分ちょっとアウェー"状態なんです」
「ああ、そういうことってありますよね」
「はい……ていうかヒョロいって言うなァァァ」
「わ、義経さんすごい」


烏天狗が口にした単語が癇に障ったのか、義経が身軽に枝から枝へと飛び移ったのを見てささやかな拍手を送ると、ふむと頷いた鬼灯が下を指さす。


「なまえもやりますか?」
「む無理ですって、きゃ!?」


有無を言わさず鬼灯に横抱きにされ、内蔵が浮き上がるような感覚がしたかと思えば頬を風に撫でられる。
鬼灯の腕にしっかりと捕まえられているとはいえ不安定な身体は心もとなく、なまえを包む黒にぎゅっとすがりついた。目を固く閉じたなまえが感じるのは髪を梳き肌をなぶるはやてと、鬼灯のぬくもりだけ。

鬼灯はわずかな空中散歩を楽しんだ後、元いた場所から何本か下方の枝にとん、と綺麗に着地した。一方なまえは彼に抱えられたまま、鳴り響く心音を耳の奥で聞きながらそのたくましい胸板をぺしりとはたく。


「びっくりしたじゃないですか!」
「いつまでも怖がっていたって愉しくないでしょう、荒療治ですよ」
「だ、だからって…!」
「おお、すげーな鬼灯様」
「俺もやってみようかなー」


2人の様子を傍観していた烏天狗たちがわいわいと呑気に盛り上がるのを見て、怯えが引き連れて来た腹立ちもおさまってしまった。
何というか、警察とはこんなに平穏なものなのだろうかと首を傾げてしまう。鬼灯も同じように考えていたようで、義経を見やりながら口を開いた。


「基本平和ですよね」
「え?ああ、しかし平和なのも考え物で…」
「おーい!悪霊が現世に逃げたってよ!」
「獲物か!?」


その立派な漆黒の翼をばたばたと羽ばたかせ、慌てた様子でやって来た1羽の天狗がそう叫んだ途端、今までのんびりと酒を飲み交わしていたのが嘘のように血気盛んに立ち上がる彼らに呆気に取られてしまう。

その浮かれようを呆然と眺めながら、悪霊が逃げたのなら逃亡を許した獄卒がいる筈だと思い当たる。鬼灯もそう思考したのか、なまえと視線を交わした後、苦々しく表情を歪めながら携帯を取り出した。
なまえはそんな彼を横目に早いところ閻魔殿に帰らなくては、と鬼灯の膝の上で息をついたのだった。


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