恋しぐれ | ナノ




どこか浮ついた雰囲気に鼻をつくアルコールのにおい、隣には少しばかり気安い口調でなまえに声をかける男性。
居心地が悪そうに肩をすくめた彼女は、その身を置く現状に困り切って顔をうつむかせた。

実のところ以前より檎から、彼が経営するホストクラブの客足が芳しくないと相談をされていたのだ。今はちょうど鉢合わせてしまった彼に店まで案内され、改善するべき点を探るため接客を受けている真っ只中。
所謂サディズムを売りにしているらしいのだけれど、彼らの対応は本来のそれから逸れているように思える。

困っている彼に助力したいと思ってはいるが、如何せんこういう場所に来るのは初めてのこと。お世辞にも男性経験が豊富だとは言えないなまえに的確なアドバイスなど出来はしないと再三述べたのだが、のらりくらりとかわされ、聞き入れては貰えなかったのだ。


それより着物に染み付いてしまったであろう酒のにおいを如何やって鬼灯に説明したら良いのかとそればかりに頭を悩ませていれば、カラン、と高いドアベルの音が響く。
何の気なしに入り口の方へ顔を向けると、煌びやかな照明に映える漆黒の裾が揺らめく。こちらを凝視しながら佇んでいたのはたった今まで思考を占めていた鬼灯だった。


「あ」
「……………何故なまえがこんなところに?浮気ですか」
「ち、違います!!これには理由が…!」
「夫に内密にしてホストクラブに赴く正当な理由を私が納得のいくように説明して頂きたいものですねぇ……」


無表情だ。
常なら不快なことがあれば眉をしかめる鬼灯は能面のような表情でこちらを見下ろし、それが殊更になまえの恐怖を煽っている。彼の漆黒の虹彩に呑み込まれてしまいそうな気がして、さっと目線を外した。
それが気に食わなかったのか鬼灯はなまえの隣を占拠していた野干を押し退けると、どかりとそこへ腰を落ち着ける。


「意外です、なまえにも男遊びをしたいなどという欲があったのですね」
「か勘違いですよ、これには事情があるんです!それに私は他のひとなんて……鬼灯さんだけが、その……す、」
「私だけが?何です?はっきりと言いなさい」
「あ…」


すっかり機嫌を損ねてしまった鬼灯を何とかなだめようと言葉を重ねるけれど、気恥ずかしい想いが勝ってしまってなかなか先をつむげない。
視線を彷徨わせるなまえの顎を、その節くれ立った指で捕らえた鬼灯は睫毛の一本一本まで見て取れるほどに顔を近づける。
促すような眼差しにからめとられ、ほんのりと桜色に頬を染めた彼女に鬼灯は目を細めた。


「言えないのですか?節操がないと思われたままでも良いと?」
「そんな…鬼灯さん、私は檎さんに頼まれて…」
「うーん、やっぱりSじゃな…」
「あっ、檎さんも何とか仰ってください…!」
「あースマンスマン、いや結婚しとるなまえちゃんに頼むのもアレじゃと思ったんじゃが…」


傍観していた檎がしみじみと呟くと、弱り果てたなまえの声が飛んだ。
所帯持ち、しかも第一補佐官の夫を持つ彼女に不躾な頼み事とは思ったのだが、親身になって話を聞いてくれるなまえについつい無理なお願いをしてしまったというか。包み込むような柔らかい笑みを向けられれば口もつるりと滑るというものだ。


彼女の言葉を受けて後頭部を掻きながら謝罪する檎を、鬼灯は静かに一瞥する。
先日よりも呼称が砕けているのを思うと、如何やらなまえとの仲を深めたらしい。
斯々然々で、と経緯を説くその内容よりもそれ程まで気心の知れた間柄となるまでの事情を聞きたい、と鬼灯はひとり眉間にしわを刻んだ。


「じゃから、アンタからSとは何たるかを教えてやって欲しいんじゃ」
「私はSではないのでお役に立てるかどうかわかりませんが……今後こういうことになまえを巻き込むのはやめてくださいよ、初心なんですから」
「いやー、みたいじゃのぉ。なまえちゃん、悪かった」
「誤解が解けたのならそれでいいのですよ」


頭を下げた檎にふっと息をついたなまえは唇に微笑を乗せる。それだけでは済まされないようなお仕置きがこの後に待っている気がするけれど、とりあえずこの場は切り抜けられた。
気を取り直してホストたちの指導をすることになった鬼灯の邪魔をしないように席を立とうとすると、がしりと手首を掴まれてしまい、隣を離れることを許されなかった。


「また浮気するつもりですか?なまえはここに居なさい」
「………はい…」


存外根に持ってしまう性分である鬼灯にぎゅう、と手を握られたまま再びソファに沈む。いつもよりわずかに力が強められた手のひらに、如何したら機嫌を治してくれるのだろうと頭を悩ませる。

隣では、早速気に食わない物言いをされたのか苛立っていたからか、鬼灯によって氷を口いっぱいに詰め込まれたホストが顔を歪めている。ここ、ホストクラブ狐の婿入りで働くホストの1人であるトルティーヤだ。
その厳しい対応は、女性や動物には優しい一面を見せるものの癇に障る者には容赦のない鬼灯らしい。


「…根本的にSを誤解なさっておいででは?作っているのが見てわかりますしそれでは女性も引くでしょう。そう思いませんかなまえ」
「えっ、そうですね…合わない性質を装っていてはご自分も苦しいでしょう?」
「私が思うにそもそも真性のSは自分からSだとは言わないと思うのです」
「それはその通りだと思います」


鬼灯の科白に、感慨深く彼を見つめて頷いたなまえ。
鬼灯はそれに首を傾げながらもサディズムについての見解を口にしていき、ついに論じ始めてしまう。それを難しいからとぱたぱたと手を振り邪険にした檎に眉をあげた鬼神は、見本を見せろとせがむ彼の首を掴んで持ち上げた。


「だから私はSではないと何度言ったらわかるんですか、刻んで油揚げに詰めてやろうか」
「なるほどこういうことか…つーか嬢ちゃんを攻めてたときが1番それっぽくて愉しそうじゃったの…」
「参考になったのなら何よりです……」


肩をすくめながら苦く笑う。帰宅してからのことを思うと気が重たくなるけれど、ホストクラブになど足を踏み入れたなまえが悪いのだ。
例えば逆の立場ならなまえだって嫌な気分になると思うし、怒りは感じなくてもひどく悲しい。鬼灯にそんな澱んだ想いをさせてしまったかと思うときゅっと胸が締めつけられた。

一方でなまえが思考の波にたゆたっている間も話し合いは続いており、無理に個性を偽るのを取りやめることになったようだ。


「流行ってるからって何でも取り入れるもんじゃねぇのぉ」
「流行りといえばニーズに合わせてもっとよい方法があると思うのですが……」
「あ、もしかして」
「何じゃ2人とも、教えてくれ」


ソファの背凭れに置いた腕へ顎を乗せた鬼灯が提案したものは、案の定ホストクラブという経営方針を根本的に覆すものだった。
彼のアドバイスを受けて変化を解き、ありのままの姿で接待を始めた野干たちは心なしか肩の力が抜けて生き生きとしている。其処は最早ホストクラブではなく―…


「狐カフェじゃな」
「でもお客さんたくさんいらっしゃってるじゃないですか、良かったですね!」
「…なぁ、それより……あんまり聞きとぉなかったんじゃが、アンタらいつまで手ェ繋いどるんじゃ?」
「あ、ここれは」
「お仕置きの一環ですよ、お気になさらず」
「長い仕置きじゃのぉ…」


指先をからめあって、まるで檎に見せつけるようにふたりの間で仲睦まじく揺れる手。
なまえの羞恥を煽るためにしていることだとしたら彼の思惑どおりに事が進んでいる。しかし独り身である周囲の寂しさをもちくちくとつついていることを知っているのだろうか。
否理解しているのだろうと檎は鬼灯を盗み見た。

彼女の意向ではないにせよ風俗店で接待を受けている場面を目撃し、それに加えて知らぬ間に好いたひとと他の男の仲が深まっている様を見れば当てつけをしたくもなるだろう。
寧ろこれだけで済んだのはなまえが隣に添っていたからか。
そう考えを巡らせ、檎は彼女が不在の際には鬼灯と極力顔を合わせないようにすることを固く誓ったのだった。


「では私たちはこれで」
「また遊びに来ますね」
「おう、2人で来てくれな」


なまえが手を振る檎に応えていると、会釈を済ませた鬼灯にぐいと手を引かれて早々と店を後にした。
からめられた指を引き寄せられ、姦しい通りを先ゆく鬼灯の背を見つめる。先刻は檎たちが居る手前どうにも気恥ずかしく口にするのをためらわれた言葉を、なまえはそっと舌に乗せた。


「鬼灯さん」
「何です?」
「私はこれからもずっと、鬼灯さんひとりをお慕いしてます」
「!」
「…大好きですよ」


物騒がしい声にかき消えることなく、妙な鮮やかさを持って鬼灯の耳へ届いた恋しい言葉。なまえの囁きを貰い脈拍はほのかに速まる。
立ちのぼるような甘さをふくんだそれに翻弄されながら、鬼灯は繋いだ手にきゅっと力を込めたのだった。


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