恋しぐれ | ナノ




仰ぎ見るほどの立派な屋敷と、それを取り囲む西洋造りで統一された街並み。
数えるほどしか訪れたことのないその国はやはり異世界のようで物珍しい。美しい景観を前に忙しなく瞳を動かすなまえは鬼灯に手を引かれ、屋敷の門をくぐった。

今日はリリスに晩餐会へと招待され、鬼灯と共にEU地獄にやって来たのだ。
案内された広間には様々な料理が所狭しと並べられており、どうやらお菜や飯を順序よく食べる日本の習慣に合わせてバイキング形式を取ってくれたようだ。

ゆるやかな湯気の立ち上るそれらに鼻をくすぐられ、思わずこくんと喉を鳴らしてしまう。
ひそやかに瞳を輝かせるなまえの隣にはワインを注がれたグラスを揺らした鬼灯が座っていた。


「なまえも気に入ったようですね」
「あっ、すすみません…」
「いえ、三大欲求に正直なのはいいことです」
「お前彼女には甘いな…」
「アラ、だから面白いんじゃない」


くすくすと笑うリリスになまえはほんのりと頬を赤らめて俯く。お決まりとなったリリスからの悪戯も漸く慣れて来たけれど、込み上げる気恥ずかしさは簡単に拭えるものではない。
隣に腰を下ろす鬼灯に何となく視線を寄せると、血を注いだようなワインを口に運んでいた彼はなまえが酒を請うたと思ったのかぽつりと呟く。


「なまえは駄目ですよ、すぐ寝てしまうんですから」
「なまえちゃん下戸なの?」
「そうですね…以前は酒の匂いで酔っていましたし」
「で、でも今は一杯くらいなら大丈夫です…!」
「本当に弱いんだな…」


ベルゼブブにどこか哀れむような目を向けられて首をすくめる。
なまえは酔いが回るとすぐに眠ってしまうという厄介な癖を持っているため、酒で気分が良くなるという感覚が未だに掴めずにいた。
糸車に指を突かれ眠りにつくおとぎ話のヒロインのように夢の中にさらわれたなまえを世話するのは鬼灯の役目だ。
ふわふわとまどろむ中でなまえを介抱してくれる鬼灯のぬくもりに包まれた時間は心地良いけれど、彼の手を煩わせてしまうので酒はあまり飲みたいものではない。

思い巡らせてつつかれた記憶は以前開かれた宴会で、不覚にも酔い潰れてしまった時のこと。
眠りの世界へと旅立ってしまったなまえは鬼灯の膝枕にお世話になったことがあるのだ。
その後、それを多くの獄卒たちに目撃されていたという事実に凄まじい羞恥に襲われ、鬼灯を見る度に彼の硬い膝の感触や体温を思い起こして。
暫く頬をなじる熱とお付き合いすることになったのはほろ苦い思い出だ。

今日は絶対に飲まないぞ、と固く誓うなまえは人知れず握り拳をつくった。


「リリスがどうしても晩餐にお前たちを招待したいと言うから用意したんだ、ありがたく食えよ」
「ありがとうございます。………鬼灯さんは最近碌に休まれてませんでしたから、いい息抜きになるでしょうね」
「…何か怒ってませんか?」
「いいえ、この間休むように頼んだのに非番をお取りにならなかったことなんてこれっぽっちも怒ってません」
「……なまえ」


ふいっと彼から顔を背けて豪華な食事に舌鼓を打つなまえを、鬼灯は無表情ながらもちらちらと盗み見しつつワインを口に含む。
怒ったふりくらいで鬼灯の困った性格が治るとは思えないが、いい薬にはなるだろう。そう思案し頬をなぞる視線にそっぽを向くなまえ。
冷徹鉄面皮も形無しなその光景に、リリスは愉悦をふくんだ忍び笑いを浮かべたのだった。


会食も中ほどまで進んだ時、給仕係だろう、この間鬼灯がなまえへのお土産にとEUから持って帰って来たメイド服に身を包んだ女性が透きとおる液体をグラスに注いでいく。
水だろうか。首を傾げながら手にするなまえを他所にリリスが艶やかな紅を引いた唇を開く。


「そうそう、日本酒も用意してみたんだけど……アラ、なまえちゃんそれ…」
「え?」
「それまさか、日本酒じゃないですか」


そう鬼灯に指摘されたのはすでにグラスの中身を嚥下した後で。鼻を通る強烈なアルコールの匂いとじわじわと胸元辺りが熱くなる感覚に、星が目の前に弾ける。
くらくらと揺れる頭に力なく椅子の背に身体を預けたなまえの頬は赤く彩られて、酒による熱にとろんと瞳が溶かされている。


「なまえ、大丈夫ですか?」
「うう…はい、なんとか…」


鬼灯は身体の芯がほどけてしまったようにくたっと弱々しくなったなまえの火照った頬を冷ましてやろうと両手で包み込むが、あまり成果は見られない。
どうしたものかと眉をひそめていると、困ったように笑ったリリスが細い指先を顎に当てた。


「後でハルピュイアイを見にお散歩に行こうと思ったんだけど…なまえちゃんはその様子じゃ無理そうね」
「…はい……、お2人で楽しんで来てください」
「え 俺はそれを黙認すべきなの?君も簡単に許しちゃっていいのか!?」


鬼灯とリリスに居残る旨を告げれば、目を剥いたベルゼブブに指を突きつけられる。
投げつけられた質問の意図がよくわからず首を傾げるなまえはやわらかに口角を持ち上げて言葉をつむいだ。


「鬼灯さんのこともリリスさんのことも信頼してますし、…もしその、そういうことになっても決めるのは鬼灯さんです」
「…どうです、よく出来た嫁でしょう。男と女が2人きりになったからといっていちいち神経を尖らせるどこかの右腕とは違いますね」
「何だと…!?」


口ではそう言ったものの、少し物足りないと感じてしまうのは彼女を恋しく想うがゆえだ。しかしなまえの性質は承知しているし、リリスの本分に理解のある彼女がいちいち嫉妬に胸を焦がすとも思えない。
何よりこちらに寄せられるなまえの瞳ににじむ想いを認められるので、そう気にかけることでもないとわずかな不満は胸にとどめている。


「ごちそうさまです」


心にしこりを残しながらもきちんと食後の挨拶をした鬼灯の前には空になった皿が山と積まれていた。
背凭れに身を預けていた彼女も出かけるべく席を立った鬼灯たちを見送ろうと足に力を込める。それを察した鬼灯はなまえの肩に触れて彼女そっと押し留め、言い聞かせるように囁いた。


「なまえ、無理しなくとも良いですよ。少し出ますがその間いい子で待っていてくださいね」
「もう、子供じゃないんですよ…?鬼灯さんもリリスさんも、いってらっしゃいませ」


ひとつ頷いてドアに向かった鬼灯ははたと足を止め、振り返るとほのかに熱を灯した顔で送り出すなまえを一瞥してベルゼブブに視線を投げる。
その鋭く研磨された目に彼は内心怯みながらも負けじと見返すと、きゅっと眉根を寄せた鬼灯が静かに口を開いた。


「なまえに変な真似しないでくださいね」
「だ、誰がするか!お前こそ分かってるんだろうな…!」
「もう、早く」
「すみません」


水面下で交わされる夫たちの駆け引きに焦れたリリスが甘えるような声を出す。
今度こそ部屋を出ていった2人にベルゼブブはふう、とため息をつくと、椅子に腰を落ち着けたままのなまえを見やった。

先よりは幾分か頬の赤みも引いて来たようだ。しかし酒に弱いとは言ってもこれ程までとは考えが及ばないところではある。これが彼女が外交の席にあまり呼ばれない理由のひとつでもあるのだろう。
不躾な眼差しでなまえを眺め回すベルゼブブに気がついたのか、しゅんと眉尻を下げた彼女が口を開いた。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありません…」
「いや、それはいいんだが……君は嫉妬もしないんだな、日本の女性は皆大和撫子なのか?」
「私が大和撫子かどうかはわかりませんが……そんなに出来た人間でもありませんよ。嫉妬も、しない訳ではないですし」


やわらかな笑みを唇に乗せる彼女がどろりと絡みつく泥濘のような嫉妬の念に囚われるなどあまり考えつかないことだ。

何の気なしに、彼女には透けるような純白が似合うと思った。
数えられるほどしか交流を持ったことのないなまえに黒々とした感情など似つかわしくないと考えてしまうのは、その唇にたたえられる微笑みのせいだろうか。
いつの間にか心の隙間に優しく降り注ぐような笑みを改めて目に止め、なるほどこれにあの冷徹な補佐官もやられたのか、とベルゼブブは1人納得した。

彼の様子になまえは小さく首を傾げていると、おもむろに開いた扉からサタン王がひょっこりと顔をのぞかせる。
室内に右腕である蝿の王となまえしか居ないのを目に止めると、いそいそと屈強な足を踏み入れた。


「おお、2人だけか。ちょうどいい、さっき話した新しいメイド服の件なのだが、サンプルを作らせたから選ぶのを手伝ってくれ」
「は、はい」
「メイド服…ですか?」
「君は試着してくれると有難いのだが」
「し、試着ですか!?私が…?」


彼の合図によりずらりと並べられていく華やかな衣装に、ぽかんと口を開きそうになるのを指の先で覆いながら一歩後退る。

空をのんびりと浮遊するかのような酔いもすっかり覚めてしまい、どうにか逃げ口を見つけようと上手く回らない思考を巡らせた。その間にもなまえの寸法に合わせたそれを手にサタンはじりじりと迫る。


「着用した姿も参考にしたいのだ、これも外交の一環だと思ってほしい」
「が…外交の一環…」
「……本当に仕事中毒なんじゃないか日本人…」


頑として断る理由に頭を捻っていた筈のなまえが、外交という単語にゆらゆらと決意をにぶらせていくのを見てベルゼブブは口元を引きつらせる。元からなのか夫の性質が移ったのか、彼女も少々仕事に注力し過ぎるきらいがあるらしい。

結局自分の言動ひとつがEUとの関係に何か支障でもきたしたら、と考えると強く拒否することも出来ず。
比較的露出の少ない、古き良き時代の趣を感じさせられるメイド服に身を包んだなまえは落ち着かないようにそわそわと瞳を漂わせた。


「日本人は奥ゆかしいからな、それくらいのものがちょうどいいだろう」
「これ…本当にお役に立てているんですか?」
「ああ、大分イメージが固まってきた。礼を言う」
「それならば良いのですが…」


胸元を飾る大きなリボンや清楚な印象を受ける長いスカート、ふわりとなびくやわい生地にレースをあしらった純白のエプロンドレス。
慣れない洋装に戸惑うなまえを置いてサタンたちの審査は続いていく。

ううん、と首を傾げる彼らの背後でスカートの裾を抓みながらもう着替えていいだろうか、と視線を持ち上げたその時。まるで見計らったかのように開いた扉から鬼灯たちが帰り着いた。


「ただいま〜。まだ迷っていらっしゃるの、サタン様」
「鬼灯さん、リリスさん…お、おかえりなさい……」
「アラ!なまえちゃんその格好似合ってるわよ」


出来れば見られたくなかった、と気落ちする心を胸の奥に押し込めながら散策から戻った鬼灯たちに向き直る。
ぎぎぎ、と錆び付いたブリキ人形のようにつたない動作でお辞儀をしたなまえを、爪の先までじっくり眺めた鬼灯はぽつりと一言こぼした。


「そこはご主人様でしょう?」
「……………ご主人様…」
「声が小さくて聞き取れませんでした」
「おかえりなさいませご主人様!」
「あらあら」


不本意ながらもか細く落とした言葉に間髪入れずに反応され、半ば自棄になったなまえが叫ぶように返せばよくできましたとばかりに優しく頭を撫でられる。

するりと髪を梳く優しい指先を貰っても鬼灯をまっすぐ見上げる自信はなく、なまえは腹の前で絡めた手に視線を落とした。彼女の心境を知ってか知らずか鬼灯は引き結ばれた唇をほどく。


「そのメイド服、似合っていますよ。もっと自信を持って良いと思います」
「そ、そうですか…?嬉しいですけど、やっぱり恥ずかしいんです…」


鬼灯の科白に喜びが胸をよぎるけれど、くすぐられたような羞恥心には勝てそうもない。頬に朱を差してますます俯いたなまえの顎にす、と鬼灯の指がかかる。


「そう恥じ入ることはありません、顔を上げなさい」
「嫌です…!」
「おや、ご主人様の命令が聞けないのですか」
「鬼灯さん愉しんでるでしょう…!」


鬼灯にとってはなまえの抵抗などささいなものだ。顎に触れた手に少し力を入れてやれば簡単に面を上げさせることが出来る。
そうして強引に顔を上げさせたなまえは頬をほんのりと火照らせ、熱をはらんだ瞳を潤ませながら鬼灯を仰ぐ。その眼差しを目にした途端、加虐心に似たものが彼の脳をぞくりと震わせた。

それまで2人の戯れを呆れつつ見守っていたベルゼブブも、なまえを見る鬼灯の目が危うく揺れるのを認識した途端慌てて声をあげた。


「そこまでだ!続きは帰ってから存分にやれ!というかお前何でひとっ風呂浴びてんだよ!?」
「あ、そういえば!駄目じゃないですかちゃんと拭かないと、風邪ひいちゃいますよ…!」


今まで自分の足下ばかり見ていたせいで気がつかなかったが、鬼灯は風呂上がりのようにほかほかと湯気を立て、心なしか頬も紅潮している。
その墨を流したような黒髪がまだしっとりと濡れているのを目にして、なまえは急いで彼の肩にかかったタオルを取った。

諌めるような言葉を口にしながらもとんとん、と優しい手つきで水分をぬぐっていくなまえを鬼灯はどこか慈しむように見下ろしながら、彼女が拭きやすいようにと腰を屈めてやる。


「鬼灯様とは何もしてないわよ、お風呂に案内しただけ」
「イヤもうホントこればっかりはガマンならんぞ!なぁ、君もそうだろう!?」
「えっ?……そうですね、少し驚きました、けど…」


鬼灯の髪を拭く手を止め、こくんと頷く。
なまえの場合は疑いを持つ前に鬼灯が湯冷めしてしまわないか、風邪でもひいたらとそちらの心配が先立ってしまって、そこまで思考がたどり着かなかったのだけれどベルゼブブの気持ちもわかる。
誰だって愛する妻が他の男と、と考えるだけで不愉快な上、不安にもなるだろう。
そう懸念してしまうほどの想いがあるのだから。

ベルゼブブの憤りを察したリリスは贖罪のつもりなのか、いくつかの布をパッチワークのように繋ぎ合わせ、見事なメイド服を作り上げていった。
裂けた布地から垣間見える白い肌がどこか背徳的で、色香の漂うそれを即時採用したサタンとベルゼブブの頬はほのかに赤い。

その様子を並んで傍観していた鬼灯をちらりと見上げたあと、なまえはゆっくりと言葉を落とした。


「先ほどはああ言いましたけど…」
「?」


ベルゼブブに言われてから心の底にほんの少し芽吹いたわだかまり。ちり、と焼けつくようなこの感覚は鬼灯に寄せる恋心から生まれた嫉妬、なのだろう。

口に出すのは気恥ずかしいけれど、あまり隠しごとはしたくない。そう想い、首を傾げた鬼灯の黒曜色の瞳を見つめてそっと続きをつむぐ。


「本当は少し、妬きました」
「………はい?」
「で、ですから、リリスさんとお風呂に入ったんじゃないかって思ったら…………、っやっぱり何でもありません、忘れてください!」
「……忘れる訳ないでしょう」


鬼灯へのいとしい心をこぼしたかのように頬を色づかせて、恥じらうように二度三度とまたたくまぶたと、その下の虹彩にゆらりと宿る熱。
好いたひとからそんな顔を向けられて、忘れろと言う方が無理な話だ。

嫁に敵わぬは世界共通、と心の内で呟いた鬼灯は、恥ずかしげに身を縮こませるなまえの肩を引き寄せたのだった。


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