恋しぐれ | ナノ




息せき切って足を動かしながら時計に目を走らせると、もう発車時刻まで間がないことを示していた。なまえの手を握って前を走る鬼灯の背に声をあげる。


「鬼灯さん、間に合いそうにありません!」
「仕方ないですね…なまえ、口を閉じて私に掴まっていなさい」
「へ?わっ」


発車アナウンスを耳にしながらひょいと抱き上げられ、互いのぬくもりを感じる時間すら惜しいといった具合に鬼灯はそのまま大きく跳躍した。ひと息に階段を飛び降りた彼の胸元にぎゅっと縋る。
なまえをしっかり腕に抱き、閉まるドアを肩を使いながら無理矢理こじ開けると、鬼灯は深く息を吐いて切符を差し出した。


「天の岩屋戸風乗車ならOKですか?」
「ですか…てもう乗っちゃってるから…ハイ」
「すみませんご迷惑を…」
「なまえ、舌噛んでませんか」
「平気です」


すとんと降ろされながら訊ねられ、未だ暴れてうるさい心臓を何とか抑え込みながらこくりと頷く。乱れた前髪を鬼灯の長い指先でさらりと整えられながら床に放り出された荷物を手に持った。
列車に乗り込む何気ない動作ひとつでも彼といると飽きることがないなぁ、と困ったように笑う。

指定された座席を探して車内を進むと、見つけたその席の隣に腰を下ろす見覚えのある人物にあんぐりと口を開けた。


「あ、席はここです…ね…」
「……えーと…あのタレントの」
「ピーチ・マキさんですか!?」
「コラなまえ」


日なたに照らされた花のようにぱっと明るく表情を咲かせたなまえは身を乗り出しながらそう問いかけた。鬼灯に叱られつつも期待に満ちた顔を彼女に向ける。
バレた!?と驚く彼女は全身に桃を押し出したファッションに身を包んでおり、自分がピーチ・マキだと叫んでいるようなものなのだがそれに気がつく様子はなく、如何やら少し抜けている性格のようだ。

実は、なまえは彼女のファンだった。
以前から可愛らしい人だとは思っていたのだが、初期の頃からキャラクター路線はふらふらと定まらず、きっと彼女は事務所や世間に強要されたものを演じているのだと勝手に解釈してしまって。それでも懸命に活動を続けるマキを応援するようになり、いつしか尊敬をふくんだ眼差しで見つめるようになったのだ。


「あっあの!ファンなんです!」
「えっ本当ですか!?嬉しい、ありがとう!」
「どうしよう私、何かサイン出来るもの…」
「なまえ、とりあえず席に着きましょうか」


鬼灯にぽん、と優しく肩に手を置かれてすっかり興奮しきっていたことを自覚し、なまえは頬を赤らめながら一歩下がった。
最近ではこんな風に無垢にはしゃぐなまえを目にすることもなかったので、もう少し眺めていたい思いもあったが少々周囲からの視線が痛い。


「マキさんの隣と後ろ、どちらがいいですか」
「え、と、隣…ああでも緊張します……」
「……では後ろで」


ほんのりと頬を染めるなまえに釈然としない思いを胸に抱えながら、半ば強制的に背後に押しやると彼女は少し不満げな顔をしながらも大人しく従う。
相手はタレントの、しかも女性だというのに自身の心にちりっとくすぶる嫉妬のような影を見つけ、鬼灯はそれを吐き出すように深く息をついた。


「恋人ですか?」
「いえ、嫁ですよ」
「素敵な奥さんですね!旅行?」
「仕事絡みで…」


とんとんと進んでいく2人の会話は、嫌でもなまえの耳に入ってしまう。むう、と自然に唇が尖っていくのがわかった。

鬼灯も彼女のファンならそう言えばいいのに、という思いと、彼が他の女性と言葉を交わす様子を久方ぶりに目にしてじくりと胸が軋む。
タレントであるマキに嫉妬なんておこがましいと自分でも思うけれど、鬼灯が好きである以上仕方のない感情だ。心のなかで膨れ上がるそれを諌めるように目を伏せても、彼女の楽しげな声がやけに大きく耳に反響した。

ガタゴトと揺られながら、心にひと欠片のわだかまりを擁してお互いが同じ人物に嫉妬を感じている事実を知ることのないまま、3人を乗せて列車は進む。


どのくらい時間が経ったのだろうか。停車駅を告げる車内案内が鼓膜を震わせてはっと顔を上げる。
目的地である不喜処に到着していたようだ。ぼうっとしていたらしく、既に手に荷を持った鬼灯がなまえの隣に佇んでいた。


「どうしたんです?着きましたよ」
「あ、はい…マキさんは?」
「先に降りられました」
「そうですか」
「…」


それきり会話のないまま、降り立った駅の構内に朗々と鳴り響く売り子たちの声を聞き流す。
気まずい沈黙を感じてふらふらと周囲に視線を巡らせたなまえは、ベンチに腰を落ち着けるマキの姿を見つけた。なまえが近寄ろうとするのを鬼灯はくい、と彼女の手を引きその足を止める。


「…少し意地悪が過ぎましたね」
「え?」
「隣、取ってしまって申し訳ありませんでした。怒っているのでしょう?」
「いえ……怒ってる、というか情けなくなったんです」
「?」


鬼灯と籍を入れ、公私ともに彼の隣に立つことが出来るようになって。わずかながらに余裕も出てきたかと思っていた矢先にこれだ。つまらないことで妬いて鬼灯を困らせた。もっともっと、彼を支えてあげられるように心にゆとりを持ちたいのに。
小さく首を傾ける鬼灯を上目に見つめ、どこか照れたように頬を染めて微笑みながら口を開いた。


「成長しないなあって思いました。いつも鬼灯さんのことになると焦っちゃって……仕方ない奴ですね」
「…いいんじゃないですか、お互い様ということで」


ぽつりと落とされた何気ない鬼灯の告白に、今度はなまえが首を傾げる番だった。
その言い方だと鬼灯も彼女を妬んだことになるけれど、と彼を見上げればふいとそっぽを向かれて。視界に映る鬼灯の眉が居心地悪そうにきゅっと寄せられているのを見てまぶたをまたたかせる。


「妬いて…くれたんですか?マキさんに?」
「…もうこの話はお終いです」
「あ、ちょっと待ってくださいよ!」


そそくさと歩みを進める鬼灯を小走りに追いかける。
もし、もしもそうなら、と考えて心臓があまやかな熱を持った。とくん、となまえの中心で鳴る心音が春の木漏れ日のようなあたたかさを全身へ伝えていくようだった。
ふにゃりとほころんでしまう頬を引き締めることのできないまま、マキの待つベンチに腰掛けた鬼灯の隣に座る。


「何か良い事ありました?」
「え?」
「笑ってるから」
「…内緒です」


マキに顔をのぞきこまれてそう言われ、くすぐったいような感覚に心をくるまれる。そろりと盗み見た鬼灯の横顔がかすかに和らいでいるように見えて、気恥ずかしさを覚えながらはにかんだ。

なまえに詰め寄るマキとほのかに頬を色づかせるなまえ。すっかり打ち解けた2人が始めようとした鬼灯を挟んでのお喋りを遮るように、ざわざわと周囲が騒がしくなる。何だろうと四方を見るなまえの頭上を何かが通り過ぎ、ぺしゃっという湿った音が鬼灯を襲う。


「ほ鬼灯さん!」
「……」


鬼灯の頭に直撃したそれを剥がせば、それはべと、と体液を伸ばしながら離れる。気色の悪い蟲をそこらに放った鬼灯は、万引きだと叫ぶ夜叉一にゆっくりと近づきその柔らかな尾をむんずと掴んだ。


「鬼灯様何で俺をつかむんだ!?」
「虫の体液がよっぽど嫌だったんですね…」


一言も発することなく無心で頭をふく鬼灯の手をそっと止め、懐から取り出したハンカチで彼の黒髪に付着した粘りを拭っていく。汚れを一通り拭い去ったあと、労わるように鬼灯のさらさらとした髪を梳いた。
むすりと口をへの字に曲げたままなまえに甘んじる鬼灯はひと心地ついたようにため息をつく。

尾から手を離した鬼灯にほっと胸をなでおろした夜叉一は、次に万引き犯にのし掛かり攻撃の手を休めないマキに驚いて声をあげた。


「ああっおい姉ちゃんやりすぎだよ!」
「縛り方が甘い」
「鬼灯さん、縄の扱い上手いですよね…」
「これも在庫梱包のなせる技?」


正確に亀甲縛りを施した鬼灯は縄をギリギリと締め上げ、その手際の良さにマキが感激する。

在庫梱包って、どんな勘違いをされたらそういう話になるのだろうと苦笑を浮かべつつ見守っていると、偶然居合わせたのかこの諍いに誘われたのか、ひょこっと顔を出したのは小判だった。
マキとは知り合いだったらしく騒ぎの中心にいる彼女を見つけると落胆したように肩を落とす。そしてなまえと鬼灯の存在に気付かないまま、少々口が過ぎる悪態をつき始めてしまった。


「こちとら最近老婆の全裸で記事も胃も荒れてよォ、あンの冷血閻魔の犬が…」
「閻魔の犬が?」
「…太田胃散ください……」
「あ、私持ってますよ」


胸ぐらを掴まれ口からだらりと血をこぼす小判に、鬼灯から咎めるような視線を貰いながらもなまえは太田胃散を差し出す。
その背後で、鬼灯たちが地獄の重鎮だという驚愕の事実に血の気を引かせるマキがいたことには誰も気がつかなかったのだった。


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