薄っすらと目元に影を落とし、疲れのにじむ面を見せて帰宅した鬼灯を出迎える。 ゆるゆると頭を撫でられて心地よさに顔をほころばせていると、椅子に腰を落ち着けた鬼灯にひょいと抱き上げられた。 「休暇、ですか?」 「ええ。ここのところ徹夜でしたし…大王のご厚意で」 「わぁっ、じゃあちゃんと休んでくださいね!」 「…3日もあるのです、何処かに行きたいとかないんですか?」 向かい合うように膝に乗せられ、訊ねられた言葉にふるりと首を横に振る。それよりも彼の顔に巣食っている疲労の影を取り除くのが先決だ。確かに地獄はまだまだわからないことも知らない場所も多いし、ひどく好奇心をくすぐられる魅力的なお誘いではあるけれど。 何においても優先すべきは鬼灯の体調を整えることだ。 うかがうように顔を覗きこまれてやわく微笑みかけると、ひとつ息をついた鬼灯はその指先でするりとなまえの髪を梳いた。 「貴女は本当に、出来た娘ですね」 「え?そんなことないですよ…?」 「わがままのひとつくらい聞いて差し上げますが…まぁなまえがそう言うのなら、気兼ねなく休むことにします」 「はい!さ、早くお風呂入っちゃってください」 鬼灯の膝から飛びおり、すとん、と床に足をつけたなまえに倣うように立ち上がる。小さな手足を懸命に動かしてせっせと湯浴みの支度をするなまえを見つめながら、脳裏にある考えが瞬いた。 彼女が気にしているのは鬼灯の体調であり、要は身体を休めれば文句はない訳である。 ふむ、と頷いた鬼灯になまえが首を傾げると、涼しげな流し目を寄せられて理由もなくとぎまぎとしてしまう。 「如何したんです、一緒に入りますか?」 「!?入りません!」 ほんのりと頬を桜色に染めるなまえを見た鬼灯は、可笑しそうにくつりと喉を鳴らした。からかわれたのだと察したなまえは、むうと唇を尖らせて小さな握りこぶしでぽかぽかと彼の脚辺りを叩きながら風呂へと追いやる。 今度こそ大人しく脱衣所へ姿を消した鬼灯に、なまえははぁ、と肩を落としたのだった。 * ゆらゆら、ゆらゆら。 身体を温かい何かに包まれながら、ゆらゆらと上下に揺さぶられる感覚。それは淡く記憶に残る、幼い頃の思い出に似ていた。ぐずっていたなまえをあやそうとする母の背に負ぶわれながら、とん、とん、となまえの背中を優しく優しく叩く手のひら。 そんな光景がまぶたの裏に浮かんで、胸にほのかな熱がうまれた。 時折ぐらり、と大きな振動を伝えるそれにゆっくりと目を開ける。 まだ眠気の残るなまえの瞳にまず飛び込んできたのは映えるような深緑の色。 何度か瞬きをして視線を持ち上げた先に映し出されたのは、地獄では見ることすら叶わないちかちかとした光を放つ太陽だった。 「え…?ここは…」 「おや、目が覚めましたか」 「鬼灯さん!?わ、」 「コラ、あまり暴れると落としてしまいますよ」 鬼灯の背に背負われていたようだ。彼の言葉通りにずり落ちてしまわないよう黒の着物をきゅっと握ると、漸く心が落ち着いてきた。 辺りの様子を見渡すようにぐるりと首を巡らせる。どうやら山の中らしく、木々が鬱蒼と生い茂っており、人が通れるような道はあるものの一度そこから外れてしまえば間違いなく迷ってしまうだろう。 確信を持って言えることは、此処が地獄ではないということだ。 「こ、ここ…地獄じゃないですよね…?」 「ええ、現世です。この山道を登って行った先に旅籠屋があるのですが…そこで休暇を過ごそうと思いまして」 「現世…」 「避暑地として有名らしいですよ。少し時期外れなので客もあまりいないでしょうけど」 なまえがその命を終えてから初めて訪れる現世。あまり時間の経過を感じさせない、変わり映えしない景色にどこか物寂しくなった。 葉の隙間からこぼれる柔らかな木漏れ日に目を細めつつ、鬼灯の背にそっと頬を寄せる。 「現世へ視察に出た際に見つけた旅籠なのですが、もう一度来てみたいと思っていたんですよ」 「鬼灯さん…きちんとお休みするって言ったじゃないですか」 「分かっています、宿に着いたら存分に休ませて頂きますよ」 不満そうななまえの声色に、きっとむくれているのだろうと想像しつつ足を進める。 朝早く、それこそ彼女が目を覚ます前に出立し、深い眠りにとらわれたままのなまえを起こさぬよう細心の注意を払いながら現世へ降り立って。 麓までは駕籠を利用したのだが、この急な斜面を登るのは及び難いということで自らの足で旅籠へと向かうことに決めたのだ。 確かに身体はにぶい疲労を訴えたが背中に感じるなまえの体温と、すうすうと繰り返される穏やかな寝息には心なごむものがあった。そんな鬼灯の口元がかすかに緩んでいたことは、彼らを運んでいた駕籠者しか知らないだろう。 「あ、旅籠屋さんってあれですか?」 「はい、小さな旅籠ですが」 「景色も良いですし…素敵な所ですね!」 「ええ」 緩やかな山道になったところでなまえをおろしてやると、きらきらと瞳を輝かせながら旅籠屋を見つめている。 先ほどまで鬼灯を咎めていたことなど頭から飛んでしまったようだ。好奇心に促されるように鬼灯の前を駆けていくなまえの後に続く。 「あ…わ私まだ怒ってるんですからね!」 「はいはい」 はたと足を止めたなまえははしゃいでしまったことにほんのりと頬を赤らめながら鬼灯を振り返った。 彼女に呆れを含んだ返事をしてやると、先よりは速度を落として、けれど隠しきれない期待に胸を弾ませながらなまえは歩みを進めていく。 普段は見られないようなその無邪気な姿にふっと瞳をゆるめた。 漸くたどり着いた旅籠屋の主人に部屋へ通され、ひと息つく。小綺麗な畳張りの和室はい草の懐かしいようなにおいに満ちていて、山頂近くに位置するおかげかすっと胸に入る空気も新鮮なものだった。 障子窓を開けると麓までの見事な景観が一望でき、思わずほう、と感嘆してしまうほどに良い眺めが広がっていた。と、感心している場合ではない。鬼灯を休ませなければ、と思いなまえの隣に佇んでいた彼の手を引く。 「鬼灯さん、座ってください」 「?はい」 なまえはすとん、と腰をおろしてあぐらをかいた鬼灯の背後に回り、その肩に小さな手を乗せたかと思えばぐっぐっ、と力を込めて筋肉をほぐし始めた。全体に力が行き渡るように揉み込み、時折つぼを刺激するように指を立てる。 彼女の力では肩を揉むという本来の役割を果たせていないが、懸命に鬼灯を癒そうと尽くすなまえに胸の辺りがやわらいでいく。 鬼灯を労うように、慈しむようにあたたかく包まれるそこにじんわりとしたまどろみが押し寄せた。鬼灯の意識をさらうべく押しては返す眠気の波に抗おうと目を瞬かせるが、どうにも勝つことが出来ずにまぶたをおろす。 とろとろと瞳を溶けさせる鬼灯に気がついたなまえは、横になるよう勧めながら彼の頭の下に座布団を敷いてやった。 「いつもお疲れ様です、鬼灯さん。…おやすみなさい」 髪をすくう柔らかい指先と、眠りの淵から降り注ぐ優しい日向のような声音くるまれながら。鬼灯はそっと、すべての感覚を手放したのだった。 |