日々、雨日和 | ナノ




夜も更け、日付を跨ごうという時分に漸く帰宅した鬼灯を出迎える。なまえを見るなり微かに眉を顰める鬼灯に首を傾げながらも沸かしておいた風呂へと促した。


彼の脱いだ衣服を集めていると、随分と早く湯から上がった鬼灯に指先を折りながらちょいちょいと手招きされる。
ほかほかと温かそうな湯気を纏いながら寝台へ腰を落ち着けた彼に近づけば、ひょいと抱きあげられた。下ろされた黒髪が肩から滑り、しずくが一粒ぽたりとなまえの頬に滴り落ちる。それを優しく指先で拭われてから鬼灯が口を開いた。


「なまえ、すみませんが明日から3日間帰れそうにありません」
「お仕事忙しいんですか?」
「ええ、現世で大きな戦が起こったようでこちら側に来る亡者が後を絶たないんです」


謝るように頭を撫でられ、座らされた膝の上から鬼灯を仰ぐとどこか申し訳なさそうな表情をしている。

いや、傍目からは普段との違いなどわからないだろう。なまえも鬼灯と会ったばかりのころは表情筋を母親の胎内に置いてきてしまったのではないかと思うくらいだった。
少しずつ彼の考えが読めるようになり、どんな感情を向けてくれているのか察することが出来るようになったのはほんの最近だ。
それがたまらなく嬉しい。この人のことを理解すればするほど、鬼灯のために出来ることが増えるから。
そう想える根っこの部分がどんな感情を抱えているか自分では知ることのないまま、眉を顰めてなまえを見下ろす鬼灯に微笑みかけた。


「わかりました、お仕事頑張ってくださいね!」
「…1人で平気ですか?」
「だいじょうぶですよ、私16ですってば」
「それは承知しています。…まあ貴女がそう言うなら」


ぽん、と幼子をあやすように背を叩かれてへにゃりと笑う。
子供扱いはあまり好きではないが、鬼灯にこうしてやわらかく触れられたりするのは大好きだ。きっとだらしない顔をしているだろうなと考えながら寝床につく。
彼がここを空ける間、自分に出来ることを精一杯頑張ろう。そう心に決めて、おやすみなさいと囁いた低い声に返事を返したのだった。





「あれ…」


いつも通りの時間に目が覚め、布団から起き上がる。寝ぼけ眼をこすりながら隣を見ると、既に鬼灯の姿はなかった。
どうやら普段より早い時間に出勤してしまったらしい。起こしてくれたらよかったのに、と内心少し膨れながら枕元にあった書き置きを手に取る。

どうやら2枚あるようだ。

自分がいない間の金魚草の餌やりやどの肥料を与えればいいかなど事細かに記してあるものと、もう1枚。
くれぐれも知らない人には着いていかないこと、戸締りをきちんとすること。食事は欠かさず摂ること、などなどまるで子を持つ母のようになまえを気遣う文面にくすりと笑いがこぼれる。

こうして見ると普段はいじられることも多いものの、大切にされているんだろうなと感じる。心があたたかい光にほわりと照らされたように思えて緩む頬が止められない。
よし、頑張るぞと気合いを入れるようにその小さな拳を握り込んだなまえは部屋を後にした。




1日が過ぎた。

鬼灯がいないというこの状況に慣れることはない。鬼灯の昼休憩には他愛ない会話を交わしながら一緒に金魚草の世話をしていたのに、今日はそれがなかった。
夜、鬼灯の帰宅を待たずに床に就く。あの心地よいほどの低い声がなまえの安眠を願う言葉を囁くことはない。
鬼灯がいない、ただそれだけなのにこのよく知らない世界で独りのような孤独感に苛まれた。このまま眠ってしまえば2度と此処に戻って来られないような、鬼灯に会えなくなるような漠然とした恐怖が迫る。

生前早くに親を亡くしたなまえは"独り"に対してある程度の耐性ができているとばかり思っていたし、実際現世ではひとり眠ることを恐れたことはなかった。だというのにこれだ。
寝るときは常に身一つな筈なのに、横たわった布団もそれに触れる指先もひどく冷たく感じる。
この乱雑な空間で息をしているのがなまえだけだと思い知った瞬間、つきりと胸が痛んだ。


「鬼灯さん…」


無意識にぽつりと落とした呟きに返される声はなく、積み上げられた紙の束に吸い込まれて呆気なく消えていく。

このままでは考えなくていいことも考えてしまいそうだ。

胸を染める確かな痛みを振り払うようにぎゅっとまぶたを閉じると暗闇が目の前に下りてくる。その色がなまえをやわらかに見つめるあの漆黒の瞳のように思え、身体からゆるゆると力が抜けていった。そうしてやがて押し寄せた穏やかな眠気にそっとくるまれる。
鬼灯に救われてばかりだ、と自嘲しながら、その黒に寄り添うようにゆっくりと意識を手放した。



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