日々、雨日和 | ナノ




ゆらゆら、と風に泳ぐ金魚たちを眺めながら如雨露を両手に抱えて根元に水を降らしてやる。因みにこの如雨露はなまえ用に新しく購入したものだ。側面にファンシーなキャラクターがついていて、それを眺める度鬼灯はこういうのが好きなのだろうかといつも考えさせられる。
今日は鬼灯の仕事が立て込んでいるらしく、金魚草の世話を全て任されていた。この不思議な生き物に最初は植物…動物?と首を傾げたものだが数週間も経てば気ままに風に揺られる彼らがかわいくも思えてくる。
これを初めて見たときに驚きも怯えもしなかったなまえを鬼灯は感心したように見つめていたことを思い出す。今は昼休みくらいだろうか、と今朝もあの切れるような瞳を携えて出勤していった恩人を想った。


「お。なまえちゃん水遣りかい?」
「あ、こんにちは!おじさんは休憩ですか?」
「そうだよ、いやあ小さいのによくやるねえ」


大したもんだ、と朗らかに頭を撫でてくれる彼は雨童子と混ざり命を終えた後、森を彷徨っていたなまえを閻魔庁まで連れて来てくれた鬼だ。あれからなまえを憐れに思ったのか離れているという娘を思い出したのか、度々顔を覗かせてはなまえの知らないこの世界のことを話して聞かせてくれるのだ。
鬼灯が随分と高い地位についていることも彼から聞いたことだった。


「あらなまえちゃん、お疲れ様」
「お姉さんもお疲れ様です」


冷徹、ドSの代名詞、著名人でもあるらしい鬼灯が子供を引き取ったという話は瞬く間に地獄中に広まった。性質の悪いゴシップ誌に取り上げられたこともあり面白半分でなまえを見物に来る者が絶えなかった時期もあったが、鬼灯が何かしたらしくそれ以来は本当になまえを気にかけてくれている人しか尋ねてこなくなった。何をしたんだろうと少し怖く思う反面、そうまでしてなまえを守ってくれた事実が嬉しくもある。思わずゆるんでしまった頬をきゅっと引き締めた。
全ての金魚草に水を遣り終えたところで汗の滲んだ額を拭う。と、ぐう、と腹の虫も主張をし始めた。ひと段落もついたことだし食堂に行こう、となまえは軽い足音を立てて歩くのだった。





ちょうど昼時というのもあって食堂は寮に住む極卒たちでごった返していた。前に進もうにもなまえよりも何倍もの大きな人たちが壁となって簡単に弾かれてしまう。突撃しては押し返され、突入しては跳ねつけられを何度か繰り返し、どうしようと困り果てて立ち竦んでいると大きくなまえを呼ぶ声が聞こえた。


「なまえちゃん、こっちこっち」
「閻魔大王様!鬼灯さんも!」
「見事に弾かれていましたね、なまえ」
「み見てたなら助けてくださいよ!」
「本当はもっと早く呼ぼうと思ったんだけど鬼灯君がさあ…」
「いや、すみません。何度も人ごみを掻き分けようと奮闘するなまえがこっけ、可愛らしくて」


人の壁相手に奮闘していたところをしっかり見られていたらしい。しかも滑稽って言おうとしたぞこの人、と恨みがましく鬼灯を見上げれば宥めるように頭を撫でられた。まだ納得はいかないけれど、やわらかく頭上を往復するぬくもりに絆されてしまう。むすりと唇を尖らせていると鬼灯の隣の椅子へちょいちょい、と手招きされる。


「あれ?私の分のご飯…」
「ついででしたから確保しておきました」
「でもなまえちゃん、ちゃんと食べられる?」


如何せんなまえは小さいのでテーブルの高さがちょうど彼女の目線である。もちろんここには子供用の椅子などなく、閻魔は心配そうになまえを見つめた。まるで幼い孫を見るようなその瞳に微笑んでから大丈夫ですよ、と答える。


「食器さえ手元に」
「あーん」
「あれば……」
「あーんしてくださいなまえ」
「…」


無表情でおかずを挟んだ箸を向けてくる鬼灯を呆然と仰げば、もう一度あーんと言われる。数週間彼と過ごして来たけれどこんなことを強要されるのは初めてだ。
あーん、とはつまり鬼灯の手から食べろということか、と羞恥を感じながら必死に首を横に振る。


「じ自分で食べられます!というか今まではちゃんと自分で…!」
「いつも思っていましたが危なっかしいんですよ。無理して零してしまったら食堂の方に迷惑です、さ、ほらあーん」
「…っ、」


だとしても!どうして今なんだ!と声を大にして問いたい。だって目の前には閻魔大王がぽかんと呆気に取られたようにこちらを見ているし、何より先ほどまで喧騒に満ちていた食堂が水を打ったように静かなのだ。耳に痛いような沈黙のなか、鬼灯の低いバリトンだけが響く。
あの冷徹鉄面皮な鬼灯があーん…と後退る者や呆然と見守る者、好奇を含んだ眼差しを向けられ堪らず鬼灯に抗議した。


「な、何で今なんですか!皆見てます…!」
「おや、恥ずかしいんですか?それは尚更食べてもらわなければ」


だから何で!と叫びそうになるなまえの口を塞ぐように箸を寄せられる。開くのを催促するようにふにふにと唇をつつく鬼灯の瞳は愉しげに細められていた。
駄目だ、諦めてくれそうにない。ぶわりと頬が火照るのを自覚しながら、観念するように小さく口を開けた。


「あーん」
「…あー…」


放り込まれた甘辛い牛蒡のきんぴらを咀嚼しながら手のひらで顔を覆い隠した。そのくらいしなければまたこの赤い顔を見てからかわれるに決まっている。恥ずかしさに瞳が潤むのを感じてたまらず俯いた。


「ほら俯いていては食べさせられないでしょう」
「ままだやるんですか!?」
「当たり前です。私は貴女の後見人なんですから、食事の世話をするのも立派な義務です」
「ううう…」


唸りながら半ば自棄になって顔を持ち上げると不意に鬼灯が微笑をこぼした。それを目にした閻魔や周囲の極卒があんぐりと口を開けたまま呆然としているのを横目に、なまえはといえば初めて見るそれに驚く余裕もなく真白い飯が口に運ばれる。


「顔が赤いですね」
「……誰のせいですか」
「私のせいでしたか?」
「……」


これ以上話していたらますます墓穴を掘ってしまいそうだ。浮ついたような食堂の空気と、とくとくと早鐘を打つ心臓に目を瞑りながら口元に持っていかれる食事を無心で嚥下した。



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