日々、雨日和 | ナノ




「七夕…今日だったんですね」


テレビの特集を見てぽつりとこぼしたなまえを見やると、どこか遠い目をして液晶の向こうを眺めていた。それが地獄に来たばかりの頃のなまえを思わせてわずかに眉をしかめる。まだ彼女があどけない頃に時折見せていた表情。
現世を思う、寂寞をふくんだあの瞳がゆらりと揺れた。

鬼灯の視線に気がついたのか、こちらに目をうつしたなまえは照れの交じった笑みを浮かべて口を開く。


「私、天の川って見たことないんです」
「そうなんですか?」
「はい、今でもそうですけど現世はなかなかこの時期晴れませんから…」


地獄では天の川はおろか星を見ることすら叶わず、雨童子の影響なのか生前も天候に恵まれなかった。
もちろん見たければ雲ひとつない天国へ行けばいいのだけれど、鬼灯に面倒を見てもらっていたあの頃にわがままを言えという方がなまえにとっては酷だったのだ。

獄卒の職務に就くようになってからはゆっくり空を仰ぐ余裕もなく、結局今の今まで天の川というものを見たことがなかった。

天を流れる星の川。なまえは天の川をそれこそテレビや文献でしかお目にかかれない、遙か遠くのものだと認識している節がある。
それはいのちを失ったばかりの頃感じていた現世への思いに似ていた。


「……」
「…あ、もう時間ですよ、ご飯食べちゃいましょう」
「…ええ」


なまえは口をつぐんだままだった鬼灯にふわりと笑みを形づくり、気持ちを切り替えるように箸を手に取る。
彼女に倣って味噌汁に口を付けながら、鬼灯は電子の波に乗せて未だ七夕の蘊蓄を並べ立てるそれを一瞥したのだった。





葉鶏頭から頼まれた仕事がひと段落した時には、時計の針はすでに日が沈みきった時分を示していた。鬼灯は今もまだ執務室で仕事をこなしているんだろうと考えて、長く続く廊下の先を目指して歩みを進める。


「鬼灯さん?」
「……はい、わかりました。では」
「すみません、お電話中でしたか?」
「いえ、ちょうど終えたところだったので」


彼の名を呼びながら中をのぞくように扉からひょこりと顔を出すと、ちょうど通話中だったのか携帯を耳に当てた鬼灯と目が合う。
なまえが口を開くより早く、すっと人差し指をその薄い唇に添わせた鬼灯にとくんと心臓が跳ねてしまった。そんなさり気ない仕草ひとつにも心音が甘くなっていくのを自覚して頬が淡く染まっていく。

電話口の向こう側の主と一言二言交わした鬼灯は電源ボタンを押し込み、なまえに向き直った。
申し訳なさそうにこちらをうかがう彼女の耳がほのかに朱を帯びているのに瞳をやわらげながら、引き出しの中に入れておいたそれを懐にしのばせる。


「何かお手伝いすることはありますか?」
「いえ、今日はもう大丈夫です。それよりも少し私に付き合ってくれますか?」
「はい、もちろん。どこに行くんですか?」
「…内緒です」


どこに行くつもりなのか気になったけれど、わずかに目を細めてそう言われては大人しく従うしかない。
まるでエスコートでもするかのように優しく手を取られて執務室を出る。普段なら、少なくとも閻魔殿を出るまでは甘い一面を見せたりしないのだが、今日は特別なようだ。
手を繋ぎあう2人に温かい眼差しを寄せる閻魔やすれ違う獄卒たちに頬を赤らめながら会釈しつつ、鬼灯と並んで歩いた。

そっと彼を盗み見ると、いつもの無表情の中にもどこか浮き足立った色を見つけて首を傾げる。

何か嬉しいことでもあったのだろうか。

彼が喜ぶことといえば新しい地獄の案を思いついたとか面白い拷問器具を見つけただとか、そんな物騒なことしか思いつかないのだけれど、まさかこれから刑場にでも行くのだろうか。

ぐるぐると思考を巡らせるなまえを余所に、鬼灯は閻魔殿の外に待機させていた朧車に乗り込む。
気遣うように肩を抱き寄せられて車内に誘われたなまえは、彼の隣に腰を落ち着けた。


「まだ内緒ですか?」
「そんなに気になります?」
「気になります」
「では…これをしてください」


ふむ、と頷いた鬼灯は懐から布切れのようなものを取り出した。横幅が長くひらりとなまえの視界を泳ぐそれは、…何処から如何見ても目隠しなのだけれど気のせいだろうか。

勘違いだ、と自分に言い聞かせながらもさっと血の気が引いていく。まさか先ほどまでやけに機嫌が良かったのはこれのおかげなのだろうか。
なまえはふるえる唇を抑えて恐る恐る声を絞り出した。


「………あの、これ…私の記憶違いでなければ目隠しではないですか?」
「そうですよ」
「…鉢巻とかじゃ」
「ありません」


黒い布地のそれを手に距離を縮める鬼灯にひっと息を飲むけれど、狭い朧車の中では上手くかわすこともできず、あっという間に隅へと追いやられてしまう。
なまえの背後の壁へとん、と手を突いた鬼灯を見上げると、相も変わらない鉄面皮の内側に愉しむような気配を察して肩を落とす。

こうなってしまっては諦めるしかない。
なまえを陥落させるまで、嵐の中に放り出された小舟のように彼に翻弄させられるのだから受け入れてしまったほうがいい。


「わ、わかりましたよ…つけます」
「では目を瞑ってください」
「え!?じ自分でやりますって…!」
「それでは私が面白くありません」


彼から布を受け取ろうと手を伸ばすと、それから逃れるようにひょいと腕を上げた鬼灯。いたずらに頭上に掲げられてはなまえがいくら背筋を伸ばしてもそれには届かないだろう。
仕方なく諦めてちょこんと正座する。


少し不満げに鬼灯を見上げるなまえにやわい眼差しを投げると、ゆるゆると頬が色づいていった。向かい合うように座った鬼灯を気にしてちらりとこちらを見やるなまえがいとしくて、心がゆるむのを感じながら彼女の髪を撫で付けるように梳く。


「あの、目隠しするのに意味はあるんですか?」
「ありますよ、まぁ後のお楽しみです」
「……」


言いながら目元まで持ち上げられたそれに瞳を伏せると、きちんと目を閉じたか確認するように一拍置いた鬼灯はしゅる、と衣擦れの音を立てて彼女のまぶたを覆うように当て布をほどこしていく。


まぶたを閉じると途端に眼前が黒に塗られていった。暗闇に閉ざされた視界に、普段よりも他の感覚が澄んでいくのがわかる。

例えば触覚。なまえの後頭部へと手を回しているのか、ほんのわずかな距離にある鬼灯の着物に前髪がこすれて額をくすぐる。
布一枚隔てられた向こうにある固い胸板に抱き止められる感覚が思い起こされて、思わず頬が熱くなってしまった。

敏くなった聴覚は鬼灯のささいな息づかいも拾ってしまうし、それを分かっているのかなまえの耳に吹き込むように言葉を囁く彼にふるりと身を揺らす。


「きつくないですか?」
「…は、はい」
「本当ですか?顔が赤いですけど」
「ひゃっ…鬼灯さんわかってやってるでしょう!」
「さぁ、何のことでしょうか」


耳をなぶる吐息にびくりと肩をすくめると、愉悦をふくんだ声音がとぼけるように白を切る。
怒ったようにそっぽを向いてしまったなまえの無防備にさらされた頬へと指先をすべらせれば、彼女は何か言い連ねようとして開いた唇をきゅっと結んでしまった。

鬼灯の言動ひとつひとつに素直な反応をくれるなまえがかわいくて仕方がないと言うように何度も頬を撫でるぬくもりに何も言えずにいると、やわらかい感触を味わうように大きな手のひらがそこを包み込む。


「偶には私の好きなようにするのも愉しいですね」
「い、いつもいいようにされている気がするんですが…」
「あんなの序の口ですよ」


鬼灯にとっては序の口でも、なまえには簡単に心をさらわれてしまうくらいの力を持っているのだけれど。

目を塞がれていても感じる熱をはらんだ鬼灯の視線にじわじわと頬が火照っていく。
恥ずかしさに居心地が悪くなりながら身を縮めていると、綿羽が落ちてきたかのような淡い感触がふわりと頭に触れた。
咄嗟に動けないでいると、もう一度ひどくやわらかいものが髪をかすめる。何をされたんだろう、と鬼灯がいるであろう方向に顔を向けて首を傾げた。


「今何かしました?」
「いえ、何も」
「気のせいだったのかな…」
「……」


何だったのだろう。
鬼灯の長い指とはまた違う、優しいぬくもり。それが何なのかわからないまま脳裏にいくつも疑問符を浮かべていると、わずかな振動を伝えて朧車が停止した。

鬼灯に手を握られて介抱されながら地面に降り立つと、ささめくような葉のこすれる音が鼓膜を揺らした。足を受け止めてくれるふかふかとした感覚は草だろうか。
たゆたうような心地の良い風に頬を撫でられ、口を開く。


「ここ、天国ですか?」
「わかってしまいましたか、そうですよ」
「あの、目隠しは…」
「まだ駄目です。少し歩きますからしっかり掴まっていてください」


鬼灯の手に誘導されて彼の腕に縋ると、なまえを案じるように普段よりずっとゆったりとした歩調で歩き始める。
いくらか傾斜になっている場所なのだろうか、足元が覚束ずにふらりと傾いた身体を鬼灯の腕に支えられながら足を進める。

大地を踏みしめるたびに身体をよけていく真綿を思わせるゆるやかな空気が、心ごとほぐすようになまえの笑顔を咲かせた。
肌に感じるいとしいひとの体温と、内側をなだらかにするような清い空気がなまえを満たす。
視覚に囚われたままでは伝わることのなかったささやかな幸福で胸が熱くなった。


「着きましたよ」
「……あ…」


鬼灯の言葉と共に取り払われた布が隠していた景色に目を見開く。

虹彩に映し出されたのは満天の星。暗い夜空を満たす星々はなまえたちに降り注ぐようにまたたき、その圧倒される光景に言葉を失った。
ちりばめられた星くずと青黒い空を割るように流れるのは、なまえが焦がれていた天の川。その中心は白くにじみ、目にしみるような色が瞳に焼きつく。

ほのかな星明りに彩られたなまえの横顔はひどく儚げで、鬼灯は思わず彼女を捕まえるようにあたたかい手のひらを握った。なまえは繋がれた指先にそっと力を込め、空一面に詰め込まれた星影から鬼灯に視線をうつした。


「鬼灯さん、…ありがとうございます」
「……こんなことで喜んでもらえるならいくらでも連れて行ってあげますよ」
「もしかして目隠しもこのために?」
「まぁ、余興が大半の理由でしたけど」


鬼灯の言葉に繰り返しお礼を口にするなまえを黙らせるようにそのやわい髪へ唇を落とす。

感謝されたくて連れて来たのではない。
ただその抑えきれずにこぼれた幸せそうな笑みが見たかっただけなのだから。共にいる時間が長くなるほどになまえを恋しく想うのは何故だろうか。小さく顔を傾けると、見下ろした先のなまえの頬がじんわりと色を持っていくのが目に入る。


朧車の中で感じたそれと同じ感触に頬を桜色に染めたなまえは、はくはくと口を開閉しながら鬼灯を見上げる。
つまりそれはこうして口づけをされているところを朧車の彼にも見られていたということだ。目隠しだけでも羞恥が湧き上がってたまらなかったのに、と耳の先まで真っ赤に彩られるなまえの素肌を鬼灯は愉しげに見やった。


「ああもう…あの朧車さんには2度と乗れません…」
「そうですか?帰りも彼にお願いしようと思ったのですが」
「断固拒否します!」


力強く首を横に振ったなまえと視線がからむとおぼろげにゆるむ鬼灯の瞳。
表情には出なくとも、なまえに注がれる眼差しから彼の想いが流れ込んでくるようで、胸の辺りがふわりとあたたかくなる。

それにつられるようにしてほころぶなまえの頬に気がついた鬼灯もまた、あえかに唇を持ち上げた。
お互いへいとおしそうな目を向ける2人を、まどかに降り注ぐ星の光だけが見守っている。


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