日々、雨日和 | ナノ




背にかかるほどにまで伸びた髪を、なまえが手に持った櫛で梳いていく。ゆるり、ゆるりと眠気を誘われそうなくらいの優しい手つきで整えられて、鬼灯は喉元まで込み上げたあくびを噛み殺した。じわりと滲んだ視界になまえの影が揺れる。

近頃では文明開化が進むにつれて西洋に倣い髪を短くする者も珍しくない。もうそろそろ自分もそうするべきか、と鬼灯は鏡にうつるなまえを見やった。


「なまえ、髪を切ってくれませんか」
「え?か、髪ですか?私が?」


虚を突かれたように目を丸くするなまえにこくりと頷く。なまえにこうして毎朝結ってもらうのも良いが、伸びた髪は如何せん邪魔である。
現世でも西洋の文化が浸透しつつあるし、この機会にひと思いにばっさり切ってしまいたいのだ。
髪を整える手を止め、おろおろと視線を彷徨わせるなまえに向き直ってじっと見下ろす。

不器用なので、とか人様の髪を切ったことなんてない、と反論するなまえを黙りこくったまま見つめるとやがて諦めたように息をついた。


「ほんっとうにどうなっても知りませんからね?おかっぱさんになっても文句言わないでくださいよ?」
「私は見た目などどうでも良いのですが、下手な髪型にされると体裁的にまずいですね…ほら、補佐官ですし」
「そう言われると余計責任が…!」


鬼灯に手渡された鋏を持つ手がかすかに震えているのを目にしてそんなに重大なことか、と首を傾けた。
その動作にあわせて鬼灯の結われていない絹のような髪がさらさらと空になびく。綺麗な黒髪なのにな、と惜しく思いながら櫛を通した。


「………」
「………」
「………」
「…まだ切らないんですか」
「ちょ、ちょっと待ってください…心の準備が」
「大袈裟ですね」


するすると髪を梳かし、何度も深呼吸を繰り返すなまえに呆れ半分に眺めた。鏡越しに見えるなまえの表情は至極真剣なもので、きゅっと引き結ばれた桜色の唇が緊張したようにふるえる。
漸く覚悟が決まったのか、なまえのやわらかい指先が鬼灯の髪をひと束持ち上げた。鈍色に光を弾く鋏にぐっと力がこもったのを見計らい、口を開く。


「まぁおかしな髪型にしたら責任は取ってもらいますが」
「え"っ、あ!」
「…景気よくいきましたね、手元狂いましたか」
「何でちょっと嬉しそうなんですか!」


じゃきん、と思い切りのいい音を耳にしてかすかに目を細める。仏頂面だがどこか嬉しそう、というか事態が計画通りに進んで内心ほくそ笑んでいるのが窺い知れた。

それに疑問を浮かべるよりも、彼の後ろ髪が見事に真っ直ぐ揃ってしまったことの方が重大だ。
どうしよう、とあたふたとしながらそこをのぞきこんだなまえはこれ以上は無理だというように鋏を置いてしまった。
鬼灯は仕方なく宣言通り直線を引いたようにばっさりと切られたそこに刃を入れていく。
容易い様子で毛先を整える鬼灯に、最初から自分でやればいいのに、となまえは頬を膨らませた。ふっくらと頬に空気をふくませる彼女を一瞥した鬼灯は鋏を置き、わざとらしい声色をつくって声をかける。


「さて、どう責任を取ってもらいましょうかねぇ」
「ご…ごめんなさい……」
「謝罪が欲しい訳ではないのですよ」
「うう…」


どんな責任の取り方を想像したのか、血の気が引いて青褪めてしまっているなまえを見やってふっと息をつく。
大方指を詰めるとか爪を剥ぐとか、そんな血なまぐさいことを考えているのだろう。亡者相手なら思わないことでもないが、好いたひと相手に色気も何もない仕置きをするはずもない。
しかし鈍いゆえのくだらない思考を崩したときに見せる一瞬の間の抜けた顔と、見る見るうちに赤みが差す頬を眺めるのは飽きないものだ。
ゆるく瞳を細めた鬼灯はすっかり短くなった自身の髪をさらりと揺らしてなまえを振り返る。


「どうですか?」
「あ…」
「おかしなところはないでしょうか」
「はい。似合ってます…」
「本当ですか?ちゃんと目を見て言ってください」
「え、えと」


彼のつややかな黒髪を切ってしまうのは惜しかったけれど、こうして見ると短くなった髪が鬼灯の頬をなだらかになぞって、彼の端麗な顔を際立たせていた。
改めて整った顔のつくりをしているなあ、と率直な感想が胸をよぎって何だか気恥ずかしくなる。

身を縮こまらせて顔をうつむかせると、じわじわと頬にたまっていく熱を自覚させられて一段と心音が速くなっていく。なまえは耳の奥でとくとくとうるさく鳴る心臓を抱えたまま、そっと唇を開いた。


「か…かっこいいですよ?」
「顔をあげて言ってくださいよ」
「い、いやです」
「何故です?やはりおべっかですか」
「違います!本当に…!」


首を横に振って強く否定したなまえは案の定顔をあげて、鬼灯と視線をからませる。ただでさえほんのりと朱に染まっていた頬がいっそう色づいていくのを、鬼灯は愉悦をにじませた眼差しで見つめた。

そのいとおしさの固まりを溶かしたかのように甘みを帯びた瞳を見て固まってしまったなまえをいいことに、鬼灯はそのやわい弧を形づくる頬へ戯れに唇を落とした。そこを食むようにやわらかく唇で挟まれて、柔くしっとりとした感触がなまえの心をきゅっと掴んだように支配していく。
艶かしくなまえを寝食していくぬくもりに、つま先まで赤くなってしまったのではないかというほど身体が熱くなっていった。


「!!」
「おや、顔が真っ赤ですよ」
「ほ鬼灯さんがく、口づけなんてするから……!」
「林檎のようだったのでつい」
「私の頬は食べられません!」


いつだって素直な反応を示すなまえをいとしく思いながら、恥ずかしさを誤魔化すように拗ねたふりをして私室を出ようとする彼女をどう引き留めようかと考えていると、ふと何かを思い出したようになまえがこちらを振り返る。


「…その髪型、本当に似合っていますよ」
「なまえ」
「私はそちらの方が………す、すきです」
「……」
「じゃ、じゃあ私はこれで!」


今度はしっかり目を合わせてつむがれたほのかに甘い言葉の余韻を残してなまえは去っていった。彼女の背を飲み込んだ扉を暫く睨めつけたあと、常よりわずかに火照った息をふっと吐き出した鬼灯は、逃げ出した恋しいひとを捕まえるべく一歩踏み出したのだった。


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