日々、雨日和 | ナノ




鬼灯をすきなのだと気がついて、ささいな触れあいでさえも意識してしまうようになったなまえにとって、このふたりきりの空間は地獄とも天国ともいえるものだった。

ただ勉強を教わっているだけなのだけれど、寝台で何やら巻物を読み込む鬼灯は時折こちらに流し目をくれるし、時が停滞しているかのような沈黙に堪えきれずに苦し紛れに立てた小さな音も乱雑に積み上げられた書物飲み込まれて、お互いの息づかいがどこか甘く鼓膜を震わすのだ。

気まずいというよりくすぐったいこの雰囲気をぬぐい去ろうと情けなく裏返りそうになる声を吐き出した。


「あ、あの鬼灯さん」
「わからないところでもありましたか?」
「はい、ここなんですけど」
「ああ、その事例は…」


今まで裁かれた様々な実例においてなぜその判決が下されたのか、疑問に思ったことは事実だ。もちろん純粋に学びたくて質問をしたのだが。

机に片手を突いてなまえの後ろから覆い被さるようにぐっと身を寄せる鬼灯にとくんと心音が大きく響く。
縄で縛り付けられたわけでもないのに、時々背に触れる鬼灯の硬い腹の感触だとか、かすかに耳に届く衣擦れの音が不思議な力でも持ったかのようになまえを拘束する。碌に身じろぐことも出来ないままでは鬼灯の解説も頭から抜けてしまう。
ふいになまえの手元をのぞきこむ彼が背を丸めた気配がして、耳をふっとぬるい息づかいが掠めた。


「ひゃっ!?」
「ああ、すみません手元が見えなかったもので…」
「い、いえ…」
「しかしなまえ、耳弱かったんですね」
「そ、そんなことありません」


本当ですか?と密着した体勢のまま這うような低い声色がそこを撫でる。
優しく、けれどどこかしっとりとした艶やかさをはらんで吹き込まれる言葉にぞくりと背筋がふるえた。
耳が燃えるように熱い。きっと今他人には見せられないくらい真っ赤な顔をしているんだろうな、なんて思ってますます頬を上気させる。


「鬼灯さん、近すぎます…」
「そうですか?なまえの顔が面白いもので、つい」
「おもしろいって…」
「そうですね…これから問題を間違える度にこの距離で教えて差し上げますよ」
「えっ!?」


思わず振り向いてしまうと、鼻先が触れそうな距離に鬼灯の顔があり、絵の具をこぼしたようにぱっとなまえの頬が色づく。
あたたかく、かすかに湿った彼の息がなまえの肌をなぶり、黒曜石の清涼な瞳に意地の悪い光が灯った。

たちまち焦ったようにふらふらと宙を漂うなまえの眼差しを鬼灯は愉しげに見やったあと、すっと彼女から離れて寝台へと腰掛ける。
そろりと鬼灯に視線を寄せれば彼は素知らぬ顔をして再び本の世界へと旅立ってしまっているようだった。

また鬼灯はなまえの反応をみて面白がっているのだ。彼のペースに乗せられてはいけない。
平常心平常心と念仏のように心の中で唱えて、彼に与えられた課題の山を突き崩していく。


そうして半分ほどこなしたときだっただろうか。すっかり課題に集中してしまっていたなまえの髪をふわりと揺らしたのはゆるい吐息。いつの間に近づいていたのか、なまえのすぐ傍で佇む鬼灯にびくりと肩を跳ねさせた。


「わあ!鬼灯さん!?」
「全問正解ですね、ちゃんと問題にも集中できていたようですし偉いですよ」
「そ、そうですか?」


滅多に褒めない彼からもらった言葉に照れたようにはにかむなまえは嬉しさをにじませて鬼灯を見上げる。
そのやわらかな髪に指先を差し込み、ゆるゆると梳いてやると一層瞳をとろけさせて表情をほころばせるなまえに淡く瞳を細めた。


「最初は気が逸れていましたけれど、ちゃんと集中できたようでよかったです」
「気がついてたんですね…」
「なまえのことですからね」
「……そ、それはどういう…」


鬼灯の言い方ではなまえをよく見ているような、なまえのことならばわかると言われている気がしてしまう。
彼へのあまやかな想いを自覚した今、その何気ない科白ひとつでもどうしようもなく期待してしまうことを知っているのだろうか。
少しの希望を胸にそっと鬼灯を上目で見つめると、考えの読めない虹彩が静かになまえを見下ろした。


「さぁ、どういう意味でしょうね」
「……」
「あと半分ほど残っていますよ、それが終わったら甘味でも食べに行きましょう」
「!」


思い悩むような気難しい顔をしていたなまえが甘味に見事に釣り上げられるのを愉悦をふくんだ眼差しで見つめながら、鬼灯は誰も知り得ない彼女へのいとおしさであふれた心情に、ほのかに口角をやわらげたのだった。


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