その日は珍しく鬼灯と休日が重なった。 滅多にないその嬉しい偶然に今日は部屋で2人、ゆっくり過ごせたらいいな、と思っていたのだけれど。唐突に鬼灯の口から放たれた言葉に、そんな理想は叶わないのだと知らされた。 「では行きましょう」 「へ?どこにです?」 無言で、すっと人差し指を上に向ける鬼灯にこてんと首を傾げると有無を言わさず手を取られて、支度もそこそこに部屋を連れ出される。 あれよあれよという間に朧車に押し込められ、たどり着いたそこは―… 「天国の…百貨店ですか?」 「ええ、ここならある程度は品物も揃っているでしょう」 「?そうでしょうけど…」 何か贈り物でもするのだろうか、と頭上に疑問符を描きながら前を行く鬼灯の背を追いかける。 多種多様な店やにぎやかな雑踏に目移りするなまえとは対照的に、脇目も振らず歩いていた彼がふと足を止めたそこは簪や櫛などが置かれた小物問屋だった。 「ここで何か買うんですか?」 「……」 なまえの質問には答えずに、並べられたそれらを物色し出す鬼灯にわずかに眉が下がる。 返答がなかったからではない。鬼灯の背を見ればなまえの話を聞いていたか否かくらいはわかる。 それよりもちくりとなまえの胸をつついたのは、ここがどう見ても女性用の物ばかりが売られている店だったからだ。 誰にあげるのだろう。 お香さんか、それとも誰か別のひとに強請られたとか、と思考に沈むうち、無意識に鬼灯から贈られた朱色の髪紐に指をからめていた。 縋るようなその仕草に内心自嘲しながらもじくり、と胸の深いところが疼く。 「なまえ、これなんかどうです?」 「え?…綺麗な櫛だと思いますけど…」 「気に入りませんか」 「………あ、あの…もしかしてこれ私に?」 「……まさか、私が貴女以外の女性に何か贈るとでも思ったのですか」 鬼灯の言い回しに、そういう方面には疎いなまえも漸く勘付くことが出来たらしい。鬼灯に向けて恐る恐る眼差しを浮かばせたなまえにぴくりと眉根を震わせる。 心外だとでも言いたげな視線を受け、慌てて棚を眺め始めるなまえへ眉間のしわを深めながらため息を吐いた。 「そちらではなく、こちらの物を選んでください」 「あ、はい!」 「……なまえ、朱色好きでしたっけ?」 鬼灯の目に示された台へ近づくと、色とりどりの櫛が揃えられていた。 黒地に朱色…というより鬼灯を連想させるその配色に装飾が施されたひとつを真っ先に手に取れば、肩口からひょい、と顔をのぞかせた彼に不思議そうに訊ねられてびくっと肩を跳ねさせる。 急いで淡い虹色の光沢がかかった螺鈿細工のそれに手を伸ばすけれど、鬼灯はなまえが戻した櫛を手早く店員に渡してしまった。 その手際の良さにぽかんとしていると、不意に生前耳にした話が脳裏をよぎる。 近所に住んでいた女性から聞いた迷信めいた話だけれど、櫛は苦死に通じており、昔から縁起の悪い物とされていた、というものだ。特に恋仲の男女が相手に贈ると別れの意味になるという口碑だった気がする。 贈り物などの贅沢な品には無縁だったためによく知らないのも事実なのだが。 まさかとは思いながらもぐるぐると廻る思考に、腹の辺りに鉛がたまったようにずん、と重たくなってくる。重苦しいそれを吐き出すように恋しい名前を呼んだ。 「鬼灯さん…、」 「なまえの考えていることは大体わかります。…少し場所を変えましょう」 鬼灯はどこか沈んだ表情を見せるなまえの手をそっと引き、店を出た。 なまえの腕を引く力強さとは裏腹に、繋がれた指先はひどく優しい。そのぬくもりにふっと息を抜くと、強張っていた身体が徐々にほぐれていく。 促されて長椅子に腰掛ければ、綺麗に包装された小さな包みを差し出された。 受け取るのをためらうなまえの手を取った鬼灯はそこに包みを乗せ、その上から自身の大きな手のひらをきゅ、と重ねる。 「櫛は確かに別れを示唆することもありますが、もうひとつ意味合いがあるのです」 「もうひとつ…?」 頼りなさげにしゅんと下げた眉尻をかすかに和らげ、まぶたをまたたかせたなまえに、心を整えるように息をついた。 その体温を胸に刻むように重ねた手のひらへ視線を落としたあと、なまえの瞳をたゆまず見つめる。 「苦死を共にする……、所謂求婚です。まぁ私たちは既に死んでいますが」 「……え?」 「所帯を持つのは昔から苦しいこととされてきたのです。それを共に、死ぬまで分かち合ってくれないか、と…そういうことです」 2度目とも言えるこの道の終わりまで、貴女の手を離したくない。 なまえのやわらかな手のひらを包み込んでそう告げる鬼灯の瞳は直向きで、まっすぐで。 逃げることを許されないような、なまえを射すくめる眼差しに痛いほどに心臓が跳ね、頬がじわじわと熱くなっていく。 嬉しかった、思わず目の前が涙で滲むくらい。喉の奥にくっと何かが込み上げて、言葉を紡ぐこともままならない。 けれど、鬼灯さんにはもっと相応しい人がいるんじゃないかとか、人とも妖怪とも知れない私なんかでいいのだろうか、とか。 次の瞬間にはそんなことを考える自分に嫌気が差す。 「私…」 「私でいいんですか、などとそんな消極的な言葉は聞きません。 なまえが、いいんです。貴女以外はいらない」 「……!」 ふと、いつか交わした白澤との会話が思い浮かんだ。柔和な笑みを浮かべ、欲しがってもいいと、わがままを言ってもいいと告げてくれた彼に優しく導かれるようにして視線を持ち上げる。 寄せられた瞳に気がついた鬼灯は手を離し、なまえの素直な答えを誘うように頭を撫でた。 ゆるり、ゆるりと頭を往復するやわらかく愛でるような手つきに心臓が甘やかな熱を帯びていく。きゅっと胸を締めつける苦しさが心地良い。 好いた人にそんな科白を口にされて、こんな風に触れられて拒絶できる女がいるのだろうか。少なくともなまえは、いとしい人を前にして心に嘘をつくことは……拒絶することはできそうもなかった。 それどころか鬼灯と同じように、彼を如何しようもなく求めてしまうのだ。 「私も鬼灯さんが欲しい、です……。貴方のお嫁さんにしてくれますか?」 「ええ、後悔はさせません。…私と夫婦になってください」 このひととこの先をずっと共に歩いていきたい。 櫛の入った包みを胸に抱いて、花がほころぶような笑みを咲かせたなまえは鬼灯の胸元にそっと額を寄せる。ふわっと浮き立つように弾む心は喜びに満ちていた。 腕の中にその身を差し出したなまえを抱きしめながら鬼灯はかすかに息をつく。 とく、とく、と胸を穿つ心臓を認め内心で自嘲した。柄にもなく緊張していたらしい。普段よりわずかに早い心音になまえが気がつかないことを願いながら、腕の中に閉じ込めた彼女を見下ろす。 「本当は西洋の文化に倣って指輪を贈ってもよかったのですが…それはまた後日」 「えっ!?私これで充分嬉しいです!指輪なんてそんな、高価なもの…」 「相変わらずなまえは慎ましいというか……しかし指輪はこちらとしても受け取って貰わなくてはならないので」 「なぜですか?」 無垢にこてんと首を傾げるなまえを、見えない鎖で繋いでしまいたい衝動に駆られる。指輪はその手始め、といったところだ。 鬼灯から逃げられないように、周囲にこれは私のものだと知らしめるための冷たく色づく白銀。 いつしかなまえが隣にいないことなど考えられなくなってしまっていた。 こちらまであたたかくなるような、やわらかに降り注ぐ霧雨を思わせるなまえの笑顔が手の届くところにないとひどく落ち着かないのだ。 彼女が鬼灯から離れることを一たび想像したのなら、自分の中の何かが欠けてしまったような、心に冷えた隙間風が通り抜けるような感覚に陥ってしまう。 きっと鬼灯もなまえも、お互いをなくしてしまえばその先を歩いていけないほどに想いあっている。 彼女のこととなると抑えがきかなくなる自分に呆れつつ、普段はひた隠している独善的な部分が剥き出しになることに鬼灯自身が1番驚嘆していた。 鬼灯が黒々としたものを胸に抱えているとは露ほども思っていないのだろう、幸せと喜びに頬を染めるなまえのそこをするりと撫でる。 そうしてやわい髪に鼻先をうずめた鬼灯に何だか甘えん坊さんですね、と穏やかな声が降りかかるのを耳にしながら、彼はゆっくりと口角を持ち上げた。 |