日々、雨日和 | ナノ




鼻をかすめるのは薬と墨と、鬼灯のにおいが混じったあの空気ではない。気持ちが落ち着くようなほのかな木の匂い。
敷き布団越しに感じる固い床の感触に慣れてしまったからか、寝台の上で身を横たわらせるのは未だ少し違和感を覚える。


身体を起こし、櫛で丁寧に何度か髪を梳く。耳の下でゆるくひとつに髪をまとめてから鬼灯に貰った結い紐を結びつけ、梅の柄をあしらった小袖に腕を通して、気も一緒に引き締めるように帯をきゅっと締める。

支度を済ませ準備が出来たら隣の部屋へ。
鈍色に光る鍵を握る右手にゆるりと笑みを浮かべながら、そっと足を踏み入れた。

耳をくすぐるような穏やかな寝息に自然と唇が緩むのがわかる。寝台の傍に立ち、腰を屈めてゆっくりと上下する布団の膨らみを揺らした。


「鬼灯さん、朝ですよ。起きてください」
「…ん、」


いつもならすんなりと目を覚ます鬼灯はまだ深い眠りに捕らわれたままだ。ごろりと寝返りを打ち、そのあどけない寝顔をこちらへ向けてもなお起きることはなかった。

珍しいな、夜更かしでもしていたのかなと思いながら鬼灯の顔をじっと見つめる。
長い睫毛が縁どるまぶたの下には、うっすらと隈の色が見て取れる。一寸の隙もない普段とは違いかすかに口を開け、そこからすうすうと健やかに呼吸を繰り返していた。僅か幼さの残ったその寝顔にほわりと胸があたたかくなる。


「なんか、可愛いなぁ…」
「………それはあまりうれしくない感想ですね」
「ほ鬼灯さん!起きてたんですか!?」


頬に赤い寝跡を残し、寝台に寝転がったままなまえを見上げる鬼灯は、つたない言葉をぽつぽつと落とす。じっとこちらを見つめたあと意識を覚醒させるようにゆったりと身体を起こした。


「男に可愛いと言っても…私はなまえの方がずっと可愛らしいと思いますが」
「も、もう私が本気に受け取ると思って…からかわないでください!」
「…」


何か言いたげな眼差しを投げる鬼灯から目を逸らし、火照った顔を見られたくなくて掛け布団に重ねられた黒い着物を手渡す。

少し逡巡していた鬼灯は諦めたようにひとつ息をつくと黒に染め上げられたそれを手早く着付けていく。
その手の隙間からのぞく白い肌や、俯いた際に長い髪がよけて露わになるうなじを見ないよう、洗面所にさっさと引っ込んでしまったなまえを鬼灯はふっと細めた瞳で見つめる。


「別に隠れなくてもいいじゃないですか」
「だって鬼灯さん色気が…」
「色気?」
「あるんです!気付いてないかも知れませんけど!周りの女の人から言われないんですか?」
「さあ…興味ないので」


それは女にか、それとも自分の色気にか少し気になるところだが歯を磨き出した彼に口をつぐむ。
きっちり着物を着込んでいるというのにぴょこぴょこと好き勝手に跳ねる黒髪が不恰好で可愛らしい。

きっと鬼灯を1度でも見たことのある人たちは十中八九美形だとか凛々しいとか、そんな感想を持つのだろうけれど。


「髪、整えますよ」
「おねがいします」


房楊枝をくわえ、くぐもった声でそう返す鬼灯はまだ眠たそうにとろんとした目をなまえに向ける。それを一目見てきゅっと胸を締めつけられるような甘さをふくんだ感覚を覚え、唇に笑みを乗せた。

朝の支度をする鬼灯さんはとてもかわいいです。

そんな報告を誰にするでもなく心の内で呟くなまえは、糸のような黒髪にゆるりと櫛を通した。


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