日々、雨日和 | ナノ




綺麗に食べ終わった皿を返し、にぎやかな食堂から廊下へ出る。昼食はいつも鬼灯や閻魔と共に食べている訳ではなく、偶にお香や地獄へ連れて来てくれた鬼と食事をすることもある。今日は後者だった。彼はなまえをとても可愛がってくれるものだから、言ってみれば叔父のような存在だ。
じゃあ、と手を上げ去っていく彼を見送るなまえの背に珍しく慌てたようなお香の声がかかった。


「あっなまえちゃん!」
「お香さん?どうしたんです、そんなに急いで…」
「ごめんねェ、お願いがあるのよ」


どうやら衆合地獄の仕事が立て込んでいるらしく、終わるのは日付を跨ぐ頃になる、と彼女は言う。

それはいいのだが、お香は冷え性に効く漢方薬を切らしていることに気がついたのだ。なまえへの頼みというのは馴染みの薬局に薬を取りに行ってほしいというものだった。
八大地獄だとはいえ夜は冷える。斯く言うなまえも末端冷え性なので辛いだろうなと思い、二つ返事に了承した。

ついでに自分の分も貰っておこう。

その薬局の場所を説明してもらいながら、頭の中で鬼灯に貰った僅かばかりの小遣いを勘定する。鬼灯はその倍の金額を出そうとしてくれたのだが、こんな身の上であるし、それほど物欲もないため遠慮したのだ。不満そうな彼の表情を脳裏に浮かべて苦笑する。
初めて自分から欲しいと思ったのが薬だと知れば、鬼灯はまたきゅっと眉を寄せてなまえを見下ろすんだろうな、と想像して困ったように笑んだのだった。







目に優しい鮮やかな緑、暖かい空気に抜けるような青空。吸い込んでいるのは地獄と何ひとつ変わらない酸素の筈なのに、とても清らかで心身共に洗われるような気がしてくる。

地獄では考えられないような、光あふれるこの風景はまさに桃源郷の名に相応しい。


「ここが天国…!」


初めて訪れるそこに興奮して声をあげるなまえに朧車は苦笑しつつ気を付けて、と言うと飛び去っていった。
それを見送りながら未知の世界に胸を踊らせて歩を進めていく。

足を乗せる度、ふかふかと受け止めてくれる柔らかな草に思わず笑みがこぼれた。こうして一歩歩くだけで楽しそうに表情をほころばせるのはなまえくらいだろう。


「あ、ここかな」


道なりに進み、たわわに桃のなる木々を抜けると、「うさぎ漢方極楽満月」と看板を掲げた薬局にたどり着く。
その名の通り、辺りで兎たちがのんびりと草を食んでいるのを見つけ、かわいいなあなんてほっこり和んでいると目の前の扉が勢いよく開け放たれた。


「もう二度と来ないわこの色情魔!」
「ってて…」


痴情のもつれだろうか。
暴言を吐き捨ててずんずんと肩を怒らせながらなまえが来た道を去っていく女の人を呆然と眺め、店の中へと目を戻す。

床に蹲っていて顔は見えないが頬を押さえる彼は平手打ちでも食らったのだろう、痛みに唸りながらゆっくり立ち上がった。
面を上げたその顔に見覚えがあり、あっと声をあげる。


「白澤様!?」
「え?………ごめん、女の子のこと、ましてやこんなに可愛い子忘れるはずないんだけど…。誰だっけ?」


申し訳なさそうに眉を下げてなまえに首を傾げる白澤が彼女を覚えていないのも無理はない。というか覚えがあったとしても彼の記憶の中のなまえと今の姿はどうやっても結びつかないだろう。

信じてもらえるだろうかと不安に思いながら話を切り出した。


「あの…閻魔殿にいたなまえって子供、覚えてます?」
「ああ!なまえちゃんには世話になったよー、あれ?じゃあ君なまえちゃんのお姉さんとか?」
「あーいや、姉というか本人というか…」


しどろもどろにそう言うと、案の定驚いたように目を丸くする白澤に苦く笑う。
改めまして、と姿勢を正したなまえに思わず白澤もしゃきんと背筋を伸ばした。


「なまえです、よろしくお願いします」
「え、ええぇ?」






「いや、まさか一晩で成長しちゃうなんて…」
「はい…私もびっくりしました」
「うんうん。それよりなまえちゃん、やっぱり可愛くなったね」


その懐の深さ故かすんなりと現状を受け止められたことと思いがけない科白も相まって、え、とまばたきを繰り返すなまえに目を細めた白澤はその肩へ優しく手を回した。

引き寄せられて手のひらを突いた胸元に少し違和感を感じるが、上機嫌でなまえを口説き始める白澤に意識を逸らされる。


「ね、前言ったこと覚えてる?」
「はい?」
「もう少し大きくなったら遊んでほしいって…言ったよね?」


そんなことを言われた気もするが、白澤は其れ程までになまえと遊びたいのだろうか。

地獄を案内してほしいとか?

そういえば街には見世物通りなどもあるらしいが生憎なまえも詳しくはない。それとも神獣姿で体を動かしたいとか、そういうことだろうか。
蹴鞠なら一緒に出来るかも知れない、と見当違いな考えを頭に巡らせるなまえのまとめられた髪を、白澤はさらりとすくうように持ち上げる。


「なまえちゃん、意味わかってないでしょ。遊んでほしいってのはこういうこと」
「え、」


向けられた妖しげな光をゆらめかせる瞳から視線を外せずにいると、白澤はふっと色をふくんだ微笑みを浮かべた。
指先にゆるゆると巻くように弄っていたなまえの髪をゆっくりと唇に持っていった、その瞬間だった。

地を這うような低い声色と共に鉄の塊が白澤を吹き飛ばしたのは。


「遊んでほしいなら存分に遊び倒してあげますよ、この金棒で」
「鬼灯さん!?」


がしゃーん、と耳を劈くような音と薬棚に突っ込んだらしき白澤の潰れたような悲鳴。
白澤に支えられるような体勢だったためにふらついたなまえの薄い肩を、今度は鬼灯が抱いた。


「ど、どうしてここに」
「お香さんに事情は聞きました。全く、あの白豚と2人でいたら孕まされますよ」
「はらま、…そんなわけないじゃないですか…!」


ふらりとたたらを踏むなまえを鬼灯はしっかりと胸板で受け止める。白澤とは違い均一のとれたたくましいそれに、先ほど感じた違和感はこれだったんだと思い至った。
呆然とこちらを見つめるなまえから白澤へ一瞥をくれると、鬼灯は静かに口を開いた。


「さて、なまえは返してもらいます」
「ってー…つーか何でお前が来るんだよ!なまえちゃんとどういう関係だ!」
「…まあ、今は後見人ですね」
「あ!前、頭撫でてくれるって言ってた奴ってお前のことか!このむっつりが!」
「女性と見れば気を起こす万年発情期よりはマシでしょう」


今を強調する鬼灯も気になったが、何だろうこの事態は。
鬼灯はいつにも増して険しい表情で白澤を睨みつけているし、白澤はあの人の良い笑顔が嘘のように顔を歪め憎まれ口を叩いている。次々に投げては返される力強い言葉の応酬に呆気に取られた。
もしかしてこの2人、物凄く仲が悪かったり……するのだろう。


「あの、お2人とも…」
「は、小児性愛とか変態かっての!源氏物語でも再現する気かよ」
「源氏物語は要約すると10股以上かける光源氏の乱れた女性関係について書かれたものでしょう。貴方とは違って私は生憎一途なので。それとも紫の上のことを言っているのですか?私は別になまえを幼いうちから育てた訳ではありませんし、彼女の気質は彼女自身が築き上げたものです。
…なまえ、用が済んだなら帰りますよ」
「え?あ、まだお薬もらってないです」
「ああ言えばこう言う……なまえちゃん、本当僕にしとき…っぶ!」


矢継ぎ早に白澤へと投げられる科白に呆然としていれば、唐突に声をかけられてはっと我に返る。
そんななまえに近づこうと手を伸ばした白澤の顔面に、鬼灯のそれはそれは見事な裏拳が決まった。情けない声と共にたらりと鼻血まで出してしまった白澤を見て、慌てて鬼灯の着物の袖を掴む。


「やりすぎですって!大丈夫ですか白澤様…?」
「だ、大丈夫大丈夫…このくらい何ともないって」
「おや、では次はこちらで」
「鬼灯さん!怒りますよ!」


こちら、と金棒を担いだ鬼灯の前に出ると、なまえは白澤を庇うように腕を広げた。
そんななまえへ面白くなさそうに眉をひそめる鬼灯に少し怯みながらも引きはしない。む、とふたりしてお互いを睨みあった後、先に動いたのは鬼灯だった。


「仕方ないですね…薬、貰っていきますよ」
「お代置いておきますね!」
「あー、うん。なまえちゃんまた来てね!今度はそいつ抜きで会おう」
「私が許すとでも?」


ばちっと鬼灯と白澤の間に火花が散る。
再び喧嘩を始めてしまう前にと、急いで鬼灯の腕を抱きしめるようにして引いた。その仕草にぴくりと眉を動かした鬼灯をじっと見上げると、諦めたように息をつく。
白澤に鋭利な瞳を向けながらもそれ以上諍いを発展させることなく店を出て行く鬼灯に、ほっと胸を撫で下ろした。

なまえにひらひらと手を振る白澤に振り返そうと腕を持ち上げれば黙ったまま鬼灯に制されて。不機嫌そうに歪められた表情にふふ、と笑いをもらすと、どこか拗ねたようにそっぽを向いてしまう。


「……あ、私も冷え性のお薬もらおうと思ってたんでした」
「なまえも冷え性なんですか」
「はい…足とか指先とか冷たくって」
「…今から戻るのは嫌ですからね」


そう顔をしかめる鬼灯は駄々っ子のようで、普段より随分幼く見えて。少しかわいいな、なんて思いながら笑みをこぼしていると、ひょい、と右手を取られた。


「鬼灯さん?」
「薬には負けるかも知れませんが、他人の体温もないよりある方がいいでしょう」


そう呟いてするりと指をからめられた。
冷えたなまえのそこに自分の体温を分け与えるように力を込められて、指先にほんのりと熱が灯っていく。
そこからじわじわと身体を伝わる鬼灯のぬくもりに胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えながら、なまえも骨ばった鬼灯の手をきゅっと握り返したのだった。


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