小説 | ナノ




ぎゅっと風呂敷包みを胸に抱いて聳え立つ大きな扉を仰ぐ。
ここを越えればそこはもう八寒地獄ではない。八大地獄がどのくらいの暑さなのかはわからないけれど、雪女であるなまえには辛いのだろう。春一なんて下着1枚でもきつかったと言っていたし、八寒地獄の長たちは揃いも揃って心配を滲ませた表情をしていた。

けれど、と腕の中の包みを抱え直す。
何度もあちらから訪問していただいて申し訳ない。独立を画策している者もいるようだが、なまえはそんなものに関心はなかった。何より八大地獄に興味があるのだ。八寒と八大、もう少しお互いに交流を持った方がいいのでは、というのがなまえの専らの見解だった。

よし、と気合いを入れるように扉を見上げる目に力を込めて、なまえは大きく一歩踏み出した。





雪がない。
どこもかしこも白くない上、氷の塊ひとつない。普段なまえを取り囲む雪の壁は一切なく、地面は冷たい真白の積もったそれではなかった。
遠くに見える針山は茶色い山肌がすっかり見えており、葉は一枚もついていないが木だって生えている。
それだけで別世界のようなのに茹だるようなこの気温。


「あっつ、い…」


雪女はその名の通り雪でできているという訳ではないが、今にも溶け出してしまうのではないかというほどに暑い。囲炉裏の炎の中に放り出されたようだ。少々大袈裟かも知れないが、八大地獄に初めて訪れるなまえにはそんな風に思えてならなかったのだ。
かと言って春一のように着物を脱ぐにもいかず、じっと耐え忍んでいるうちに閻魔殿にたどり着く。


「閻魔大王様と鬼灯様はどこだろ…」


閻魔殿の廊下に突き当たりは見当たらず、その先は小さな点のように見える。ふらふらと足取りも覚束ないまま歩いていると、見たことのある黒い着物が目に入った。
鬼灯を逆さにした模様の入った背中。きっと鬼灯様だ、と走り寄ろうとしたその時だった。
不意にぐにゃり、と朱色の絵柄が輪郭を歪める。いや、それだけではなく周囲の景色もぐらぐら、ゆらゆらとまるでピントの合わないカメラのようにぶれていく。
振り返った鬼灯の、驚いたように目を見張るその表情を最後になまえの眼前は黒く塗りつぶされていった。


からん、と氷が互いを弾きあう聞き慣れた高い音と、額に感じる気持ちの良い冷たさに意識が浮上する。


「ん…」


ぼやける視界にぱちりと瞬きを繰り返す。漸くはっきりした瞳が映し出したのは、見慣れない木目の天井だった。
まだ混濁した意識の中、暫くぼうっとしているとにゅっと目の前に割り込んできた仏頂面な鬼の姿に思わず声をあげる。


「わぁ!って、鬼灯様?」
「気がつかれましたか」
「私…?」
「熱中症で倒れたんですよ」
「そうでしたか…ご迷惑をおかけしました…」


涼しげな目を向けられて慌てて起き上がるとまだ本調子ではないのか、思う様に力が入らず布団の上へへたり込んでしまう。
気遣うように背中に手を添えられ、情けなさに俯いていると寝ていてくださいと再び横になるよう促された。


「でも」
「まだ熱もあります、いいから寝ててください」
「…お手を煩わせてしまって申し訳ございません…」
「…全く、相変わらず生真面目な方ですね」


病人なんですから休むのが仕事ですなんて言われながら布団に引き倒された。
申し訳なさに身を縮こませながら大人しく身を横たえれば、鬼灯はなまえの乱れた髪を整えるようにするすると指先を滑らせる。
ふと頬に当たった心地の良い冷たい感触にふわりと表情がやわらいだ。


「鬼灯様の手、冷たくて気持ちいいです」
「普通だと思いますが…というか普段ならなまえさんの方が冷えていて当然なんですからちゃんと体調が調うまでここにいなさい」
「ふふ、はい」


眉を寄せる鬼灯はまるで子供を叱る母親みたいだなぁと笑みをこぼしながら視線を巡らせる。

そういえばここは何処だろうか。
本棚に詰まった書籍や巻物、食玩などが所狭しと置かれていて統一性のない、悪く言えば散らかった部屋。
なまえの疑問を察したのか鬼灯がひとつ息をついて口を開く。


「ここは私の自室です。なまえさんが倒れられた場所から近かったので運びました」
「えっ!?何から何までありがとうございます…!……あ、あれ私着物は…」


鶯色を基調とした打掛を身に纏っていたのだが、いつの間にか下に着ていた白い襦袢だけになっていることに首を傾げる。
そんななまえをどこか意地悪さを浮かばせた眼差しで見やった鬼灯は、目を細めながら口を開いた。


「今更ですか?普通起きてすぐ気がつくと思いますけど…ああ、因みに脱がせたの私です」
「ぬ、ぬが…?」
「熱中症ですよ、薄着にするのは当然でしょう」


鬼灯の言葉に林檎のように真っ赤になってふるふると震えるなまえに、やはり女性に頼んだ方がよかったか、怒っただろうかと考えているとぱっと顔を上げたその瞳はうっすらと潤んでいた。


「お、お見苦しいものをお見せしました!」
「…怒るものだと思ったのですが…貴女は可笑しな方ですね」
「え、変…でしょうか?」


こてんと頼りなく首を傾けるなまえが可笑しくて、どこか胸をくすぐるものがある。
愛らしいというかからかい甲斐のあるというか。自分の言動ひとつひとつに返される少し常識からずれた彼女の反応をずっと見ていたい気にさせられる。
不思議だ。

鬼灯が物思いに耽る間もいくつも疑問符を浮かべて真剣に悩むなまえに向き直る。


「勝手に愉しんでいるので気になさらないでください」
「うう、気になりますよ…」
「それよりもう寝た方が良いでしょう、私も仕事に戻ります」
「あっ、すみませんお仕事中だったのに…」
「こちらのことはいいですから眠ってください」


眉を下げるなまえはまだほんのりと顔を赤く染めている。熱が抜けないのか、火照らせた吐息をゆるりと吐き出すなまえの頬に先ほど気持ちがいいと言われた手のひらをぴたりとくっつけてやる。

すると無意識なのか、鬼灯のそれに擦り寄るようになまえは身じろいだ。
へにゃりと力の抜けた笑みをのぞかせるなまえを見つめていると、やがてまどろみに誘われるようにしてとろりと瞳を蕩けさせる彼女。なまえの安眠を願うように、鬼灯は一言おやすみなさい、と囁いた。


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