小説 | ナノ




*本誌ネタ注意




永遠を誓い合うための紙切れ、彼が手にしていたそれに書かれていたのは自分でないひとの名前。

それを目にしたとき、心臓が冷たい手にきりきりと締めつけられたかと思ったほどの苦しみに胸が軋んだ。
かと思えば動揺からどくどくと心臓が嫌な音をたて、身体が熱くなって。喉の奥からくっと何かが込み上げてくる感覚に襲われた。

ああ、吐き気がする。
きちんと理由があるのにどうしようもなく嫉妬してしまう自分も、それだけで彼を信じられなくなってしまった心も。
すべてに嫌気が差して、気の向くままに訪れたのはそんななまえの汚らしい何もかもを包み込んでくれると思ってしまうほどの和やかな空気をまとった、あの人の元だった。


「どうしたのなまえちゃん…その、」
「ひどい顔、してます?」
「………」


突然姿を見せたなまえを快く迎え入れてくれた白澤は彼女の沈んだ顔を見て目を丸くする。ためらうような素振りを見せたあとこくんと頷いた白澤に、薄っぺらい笑みで取り繕った。
それもひどいものだったのか、わずかに眉を寄せた白澤は店を閉め、なまえを奥の部屋へとさそう。

やわらかに手を握られて、鬼灯とは違い優しく優しく導くその人に、どうしようもなく涙があふれてしまうのはなぜだろう。

泣きたくなんて、なかったのに。

面倒な女には成り下がりたくなかったのに、目が合えばふわりと淡く微笑んでくれる白澤に心の柔いところがずくりと疼く。
極楽満月にはなんとなくたどり着いてしまったと思っていたけれど、こんな風に心を癒してくれるひとを探していたのかも知れない。

女性に分け隔てなく優しい白澤ならば、この胸を凍りつかせるような感情を溶かしてくれるだろうと。


「隈できてる、碌に寝てないんじゃない?眠ったほうがいいよ」
「…理由は、聞かないんですか?」
「大体察しはつくよ、…あいつと恋仲なのも楽じゃないね」
「……」
「ホント、僕よりよっぽど罪作りだと思うよ」


なまえをベッドへと寝かせ、傍についていてくれる白澤にするすると髪を梳かれる。彼の言葉に、そういえば数日前からあまり眠っていなかったのだと気がついた。

夜、目を瞑ると脳裏に思い浮かぶのは可愛いあの娘と鬼灯の顔で。夢にまで見てしまうのではないかと考えたら怖くてたまらなくて、安心して眠りにつくこともできなかった。

けれど今は白澤がいてくれる。ぬくもりに満ちた指先がなまえの頬をいたわるようにすべって、とても心地が良い。
その仕草があまりにも優しいから、その笑みがあまりにもあたたかいから。
数夜ぶりにやって来たとろとろとしたまどろみに、漸く身を任せることが出来たのだった。


悲しみをにじませていた瞳をまぶたの裏に隠し、すう、と寝息をたて始めた彼女の前髪を払ってやる。暫く見守るようになまえを見つめていた白澤は、徐に携帯を取り出して耳に当てた。


「もしもし。いきなりで悪いけどさあ、……お前ちょっと面貸せよ」





「…ん、」


ゆるりとまぶたを開き、眠気を取り払うように瞬きを繰り返す。明瞭になっていく視界にうつったのは見慣れない天井。白澤を訪ねたときには夕焼け色に染まっていたそれも、とっぷりとした夜の闇に浸かっていた。

しかしぼうっと霞む意識を浮上させたのは、そんな慣れない景色でも鼻をつく薬のにおいでもなかった。


「目が覚めましたか」
「!」


恋しいひとの声。
低く落ち着いた声色に耳をくすぐられ、びくりと肩を跳ねさせながら視線を横に流すと、なまえに寄り添うようにベッドの脇へ膝をついていたのは鬼灯だった。
どくんと脈打つ心臓を抱え、恐る恐る彼と向き直ると相変わらずの仏頂面に痛々しい痕を見つけて目を見開く。


「その傷は…!」
「白澤さんに殴られました」
「大丈夫なんですか!?」
「…貴女の痛みに比べれば」
「………鬼灯様」


そっと頬に手を当てたなまえのそれに手を重ねた鬼灯は、懺悔するように頭を垂れた。
鬼灯が跪いているからか、いつも見上げる顔はなまえの目線よりも低いところにあって何だか不思議な感じがする。

何も言えずにいるなまえのぬくもりを確かめるように目を伏せていた鬼灯は、そっと瞳をのぞかせた。
いつもまっすぐになまえを貫く虹彩はゆらゆらと頼りなさげに震えている。鬼灯のそんな表情は初めて見るもので、戸惑いを隠せない彼女にぽつりと言葉を落とした。


「不安にさせてしまって申し訳ありませんでした。…浅はかだったと思います」
「……」
「謝っても許してもらえないかも知れませんが…」
「わかっていますよ、仕事だったんですから…仕方のないことです」
「なまえさん」
「は、」


はい、と返そうとした声は漆黒に飲み込まれ、目の前いっぱいに広がる黒となまえをくるむ鬼灯のにおいにきゅうっと胸が甘苦しく鳴いた。
背中に回された腕は力強く、なまえを逃すまいと閉じ込める。
抱きしめられたまま動けずにいるなまえの耳元に、彼女だけに寄せられるやわらかい声音が降ってきた。


「本当は、どう思っているのですか?」
「……私…」
「聞かせてください。どんな罵言も文句も、全て受け止めます。私が恋しく思うのは貴女だけなのですから」
「………本当はいや、でした。例え脅しのための嘘であっても鬼灯様が誰かと結婚する、なんて嫌でたまらなかったんです。冗談でも、あの用紙に他の誰かの名前が並ぶのを見たくなかった…」


なまえを抱きすくめる鬼灯の腕にいざなわれるように、じくじくと痛む心から言葉が滑り落ちた。
一言二言重ねるうちに、ずっと胸の中に溜めていた冷え冷えとした重たい固まりがほどけていくのを感じる。
悲しみを帯びたその科白ひとつひとつを噛みしめるように聞き届け、ゆるりと背を撫でてくれる手のひらに冷たくて仕方のなかった心がぬくもりを取り戻していった。


「配慮が足りませんでしたね…」
「…いいえ、私が受け入れられなかったのがいけないんです」
「……」
「…どうしました?」
「白澤さんの言う通りだと思いまして」
「え?」
「なまえさんは私に優しすぎるんです。もう少し利己的になってもよいのですよ」


ふ、と瞳を細めた鬼灯に見つめられて眉尻を下げる。
急に利己的と言われてもどうしたら良いのかわからない。困ったように口をつぐんだなまえに、鬼灯がゆっくりと顔を近づけた。


「何かして欲しいことはありませんか?何でも叶えて差し上げます」
「……じゃああの、頭を…」


撫でてください、と言い終わらない間に頭上を往復し始めるごつごつとした手のひら。ゆるり、ゆるり、となまえの髪を梳くその愛おしむような手つきに無意識に唇がほころんでいく。
本当に幸せそうななまえのその表情が焦がれるほどにいとしく、鬼灯はひとしきり彼女の髪の感触を楽しむともう一度訊ねた。


「他には?」
「ええと、」


自然と、彼のきゅっと結ばれた唇に目が向いてしまう。
鬼灯に想われているという証が欲しかった。まだ数えるほどしか触れたことのないそこから感じる体温が、熱を分かち合うようなその行為が欲しかった。

暫く逡巡したあと、かすかに震える指先と鬼灯の赤く色づいた唇をひとつにする。唐突に触れたやわい肌に、鬼灯は軽く目を見張ってなまえを見つめる。
そんな彼からふいっと視線を逸らすと、胸の奥に湧き上がる気恥ずかしさが全身を熱くさせた。


「ここが…欲しい、です」
「……喜んで」


鬼灯はその瞳に甘い熱を灯して、なまえと視線をからめる。
惹かれあい口づけたあたたかい感触を確かめるように、心に繋ぎとめるようにまぶたをおろす。
真っ暗な視界の中、あまやかに啄ばまれるそこを想ってなまえは胸を高鳴らせたのだった。


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