バレンタインが近づくにつれ周囲の空気が桃色に染まっていくのがいやでもわかる。同僚はずっと想いを寄せていた人に今度こそ告白をするんだと意気込み、そんな彼女をひどく眩しく感じた。 「バレンタインかあ…」 騒がしい食堂で、目の前に並べられたおかずをつつきながら1人ぼおっと物思いにふける。そもそもチョコレートを送るというのは日本の製菓会社の販売戦略で、本来のバレンタインデーは愛を確かめる日であってその手段は限られていないのだから、と心の中で言い訳を繰り返し頭を抱えた。極卒になってから仕事一筋、好きな人など碌にできたことのなかったなまえは料理や菓子なんか作ったこともない。しかも相手はあの鬼灯だ、下手なものをあげたら何と罵られるかはたまた殴られるかわからない。 「チョコ…ううう」 べたり、とテーブルに突っ伏した途端後頭部に走る衝撃。誰かにはたかれたのだと気がついたときには既に鈍い痛みがなまえを襲っていた。なまえに、というか落ち込んでいる様子のいたいけな女の子にこんな仕打ちをする人は1人しか知らない。 「いたああっ何するんですか鬼灯様!」 「食堂の机に伏せるんじゃありません」 「叩かなくてもいいじゃないですかー…」 情けない声をあげるなまえをふん、と鼻で笑った鬼灯は彼女の正面へと腰を下ろす。無言で昼食を食べ進めるこの鬼神こそなまえがほのかな恋心を抱いている相手であり、直属の上司でもある。そもそもこの人バレンタインに興味あるのだろうか、と窺うように上目で見つめた。 「何ですか」 「あ、いやえっと…あー…もうすぐあれですね、ば、バレンタイン」 「ああ、もうそんな時季ですか」 「それでええっと…鬼灯様はチョコ貰ったりするんですか?」 「職場でのチョコレートは禁止ですよ」 「え!!」 ちらちら、と反応を見ながらの会話に不審そうな目を向けられながら言葉を重ねていけば言い渡された驚愕の事実にさっと青褪めてしまう。 そういえばそんな決まりもあったような、と固まったまま思考を巡らせる。恋愛ごとにとんと縁のないなまえが知らないのも無理はないが、だったらどうしたらいいのだろうと再び机に伏せそうになるのをぐっと堪えた。元々そういう方面の度胸も勇気もない上に恋愛音痴、しかも相手はこの冷徹鉄面皮な鬼神様だ。あわよくばバレンタインという名を借りてちっぽけな勇気を振り絞ろうと思ったのにそれすら許されないとは。告白まではいかなくとも日ごろの感謝や恩義に報いを示すことができたらと思ったのに。 「まあ常識の範囲内で自由にしたらいいと思いますが」 「……」 「…好きな方でもいるんですか」 「え…!べべ別にそんな人いないですけど…!ど、どうしてですか?」 「何か気落ちしているようだったので」 伏せられた瞳を見つめながら膝に置いた手の指先をもじもじと遊ばせる。 常識の範囲内で、だったらプライベートで渡すのはありなのだろうか。 鬼灯様とプライベート…と考えたところであまりの恥ずかしさに両手で顔を覆う。それは勤務外の時間に彼を呼び出して手渡すということ。何やら妙な空気になるのは目に見えているし、鬼灯が素直に受け取ってくれるとも限らない。 仮に渡せたとして何と言えばいいのだろう。好きです?無理だ、例え天と地がひっくり返っても不可能だ。今でさえ火がついたように顔が熱いというのにこれ以上の羞恥には耐えられそうもない。 そして断られたとき。それを考えただけで胸が張り裂けそうに痛んだ。心臓に氷の塊を落とされたと錯覚してしまうくらいに全身が冷えていく。 赤くなったり青くなったり、しまいには泣き出しそうなほどに瞳を潤ませるなまえはこちら側に帰ってくる気配を見せない。鬼灯はため息を吐きながら彼女の額に手を伸ばすと、そこをびしっと指で弾く。大分力加減はしたつもりだが、それでもなまえの柔い額に赤く跡を残した。 「いたあっ」 「帰ってきなさい、全く貴女は…」 「う…ごめんなさい…」 「それで?あげるかどうか決まりましたか」 「な何でそれを…!」 「男なら女性に想いを寄せられて悪い気はしないと思いますよ」 相変わらずの仏頂面で事も無げにそう言う鬼灯にとくとくと心音が早くなっていく。 それは鬼灯にも当てはまるのだろうか。 だったら返事は何にせよ受け取ってはくれるかもしれない、と微かな希望の灯を見出す。そんな下心も忍ばせて、そっと唇を動かした。 「それは鬼灯様も、ですか?」 「はい?」 「鬼灯様も、私に好かれたら嬉しいですか?」 「……」 言葉を発さず唯なまえを見つめるその闇夜のような虹彩からは感情を読み取ることはできない。が、不意にその瞳の中に息づく光の粒がゆらりと揺らいだ瞬間、はっと我に返る。 今の言い方では好きだと告げているようなものではないか。思い至った途端ぼわりと顔に熱が溜まっていく。 「う、あ…あの私これで失礼します!」 「待ちなさい」 がしりと力強く手を繋ぎとめられその場を離れたくとも鬼灯の大きな手がそれを許してくれない。突然握られた手のひらとかそこから伝わる彼のぬくもりだとか、なまえに寄せられた射抜くような切れ長の瞳だとか。目を逸らすことすらままならず、きっと真っ赤であろう頬を晒すことしかできなかった。 「嬉しい、と言ったら?」 「え」 「なまえさんの心を私にくれるのですか」 「……っ」 掴まれた手をぐっと引かれ、耳元に唇を寄せられる。教えてください、と掠れた低い声で囁かれてぱくぱくと口を開閉するなまえを微かに口角を緩めて可笑しそうに見つめる鬼灯。滅多に見せない微笑にますます心臓が跳ねるやら頬が火照るやらで混乱しきったなまえは思わずこくりと頷いていた。 「そうですか。では楽しみにしていますよ、バレンタイン」 「は、はいっ」 料理も碌にできないという事実は頭の隅に追いやったまま、未だ鬼灯の吐息がかすめた感覚が残る耳にそっと触れた。 |