小説 | ナノ




朱色の絵の具をこぼしたように熱をためた頬を携えて、かすかに震える手のひらをぎゅっと握りしめる。
恐らく私室へと帰る途中であった彼を呼び止める時でさえ常より早い脈を打っていた心臓は、ともすれば壊れてしまいそうなほどの熱を帯びて弾んでいた。

目の前で気難しそうに眉をひそめるその人はこちらをじっと見下ろしたまま、用件を訊ねるように小さく首を傾ける。
そんなささいな仕草ですらたまらなく恋しいものに思えて仕方ない。とく、とく、となまえの中心で存在を主張するそれを抑えるように深く息を吸う。

そうして、長い間絶えずなまえの心にくすぶっていた恋心を声に乗せ、彼へと飛ばした。


「す、好きです!」


何事にも真摯な眼差しを向ける貴方が好きです、だとかずっと前から見てました、だとか、用意していた科白は彼への想いにうもれた胸のどこかへ消えてしまって。
半音はずれた声色でつむいだその四音だけがなまえのすべてだった。

胸に秘めていた恋慕を言葉にすることがこんなにも恥ずかしいものだとは思いもしなかったなまえの胸の中では、今すぐにこの場を逃げ出したいと思ってしまうほどの羞恥と、想いを伝えられたことに対する充足感と漠然とした不安がぐるりと綯い交ぜになり、溶けていった。

顔が火照る。ふくれて弾けてしまいそうな心臓が、全身に淡い甘みをはらんだ熱を巡らせる。

相変わらず冷徹な光を灯すその眼差しから目を背けそうになり、それでも想いをのせた瞳を懸命に彼へと縫いつけた。


「……貴女は確か、経理課の」
「は、はい、なまえといいます!」


数拍の沈黙のあと、鬼灯は声の出し方を思い出したかのように唇を動かした。思わずぴしりと背筋をのばして頭を下げてしまえばかすかに息をつく気配がして、そろそろと視線を持ち上げる。

鬼灯とは偶に挨拶を交わすくらいで、接点らしい接点もなく過ごしてきたため顔を覚えられていた、たったそれだけのことが嬉しくてたまらなかった。
頬を赤く色づかせてふにゃりとだらしなくゆるんだなまえの顔を一瞥した彼は、静かに口を開く。


「好き、とは恋愛感情からくる好意ですか」
「は、はい!あでも鬼灯様のことは尊敬もしています!私仕事は出来るほうじゃないので、何でも完璧にこなす鬼灯様は凄いなって思うんです……だからあの、敬愛も含めての好きです!」
「……そうですか」


なまえがその甘く苦しい心情を吐露する一方で、鬼灯は突然背中へ降りかかった声に真面な反応を示す間もなく告げられた、熱をはらんだ言葉に珍しく虚を突かれていた。

彼女とは目が合えば会釈を返すくらいで、面識はないと言っていいだろう。そんな相手ならばまず親交を深めようとするのが大抵のひとが取る行動なのではないか。

恋をした人間の九分九厘が順当に踏んでいくだろう段階をすっ飛ばし、鬼灯に求愛してみせた彼女に好奇心にも似たものがつつかれたような気がした。


「あ、だからと言って男性として見てないわけじゃなくて、ちゃんと異性としても好きなんですけど…えっと」
「………」


こちらに向けられるそのきらきらとした眩しい瞳からは痛いほどの想いがあふれており、呼び止められたときに見せた、恥じらいをひた隠すようなしおらしさは微塵も感じられなかった。
恋情を音にしたときの頬の赤みも拭い去られ、ただただ純粋に鬼灯を想う彼女に目がくらむ。

そして何より、ころころとめまぐるしく変わる表情は彼女と邂逅したわずかな時間を愉しませてくれた。
なまえを思いぐるりと巡る鬼灯の思考を知ることなく、彼女はその桜色の唇から次々と言葉をうみ出す。


「ずっと言おうと思ってたんですけど、なかなかタイミングが…」
「貴女、面白いですね」
「へ?」
「いえ。で、なまえさんは私と具体的にどんな関係になりたいのですか?」
「えっ!?か関係ですか!?」


本来ならばよく知りもしない女性からの告白など早々に袖にするところなのだが、ほんの少し芽生えた興味から鬼灯はひとつ訊ねてみることにした。
鬼灯の問いを受け、彼女は不意を打たれたように素っ頓狂な声をあげたあと、ほのかに頬を染めて照れたようにはにかむ。

恋仲になれたならとても幸せだけれど、きっと彼は望まないこと。彼を煩わせることはなまえだって望まない。
彼女はそう思惟して、口を開く。


「それは…お付き合いとかできたらとても嬉しいです、よ?」
「…そうですか」
「でも鬼灯様が迷惑を被ることはしたくないので、これからも遠くから想うことを許してほしいです」


か細い笑みを見せるなまえに、今まで無表情を飾っていた顔をしかめた鬼灯は喉の底から吐き出すような深いため息をついた。
それにびくりと肩を跳ねさせたなまえはそおっと鬼灯を見上げる。目元の影を濃く落とした鬼灯と目が合うと、なまえは尻尾を丸めて怯える犬のように身体をすくめた。


「何ですかそれは」
「…鬼灯様?」
「勝手に告白しておいて、想いを知ってほしかっただけとでも言うんですか?私を好いているのならば振り向かせてやるくらいの気概を見せなさい!」
「え、え?ごごめんなさい!」


何故かぴしゃりと叱られてしまったなまえは普段仕事で怒られるときのように反射的に謝ってしまう。そのまま顔をうつむかせ、自身の爪先を視界に映しながらあれ、と首を傾げた。

鬼灯の科白はまるでなまえの恋を応援しているようではないか。

背中を押すような言葉にきょとんと目を丸くしたなまえが状況をのみこめないでいると、ひとつ吐息を落とした鬼灯は物分かりの悪い子犬に言い聞かせるように声を落とした。


「なまえさんは私を好いているのでしょう?」
「はい…!で、でもアタックされるのとか迷惑じゃ…」
「そこまで気を回せる貴女のことですから私が本当に邪魔だと思うほどのことはしないでしょう」
「それはもちろんですけど」
「ならば良いです。私は別に社内恋愛を禁止している訳ではないのですから……意味はわかりますね?」


鬼灯は上目にこちらを見るなまえの顔を確認するようにうかがった。瞳がからんで、再び鬼灯への想いがじわりと染み出す。
まだ腑に落ちない部分はあるけれど、鬼灯がくれたチャンスをみすみす逃がしたくはない。
決意も一緒に固めるようにきゅっと握り拳をつくったなまえは、鬼灯に向き直ってそのひたむきな瞳を彼に寄せた。


「……私、鬼灯様に振り向いてもらえるようにがんばります!」
「…まぁ楽しみにしていますよ」


腹を決めたように芯の通った声色でそう宣言したなまえの瞳は一点の曇りもなく、ひたすらに鬼灯を見つめる。彼女の虹彩に映し出された鬼灯は新しい遊びを思いついた幼子のようにどこか愉しげに思え、なまえはつられるようにしてふんわりと笑んだ。

そんな彼を眺めながら、ふと浮かんだ疑問。なまえは首を傾けて、頭をかすめた疑念を口にした。


「あの、ひとつ聞きたいんですけど…どうして背中を押すようなこと言ってくれたんですか?」
「…強いて言うなら、私にまっすぐ好意を伝えて来る人は珍しいからですかね」
「でも鬼灯様なんて引く手数多じゃないんですか?」
「そう思います?でもなかなか同じ職場で恐れることなく告白してくる人って少ないんですよ、普通に職務をこなそうとしても気後れするでしょうし」
「ああ、そっか…!」
「貴女後先のことなど考えていなかったでしょう」
「は、はい」


後腐れするだろうことを考えもしなかったという顔をして身を縮こめるなまえに、鬼灯はかすかに表情を和らげた。単純明快でひとつのことに一直線。

そんな彼女が嫌いではなかった。
彼女を後押しするような言動をしたことに大した理由はない。
ただ沸いて出た単純な興味に従っただけ。なまえほどに純粋でまっすぐなひとは物珍しいから、それだけだ。

これから彼女がどんな手段で鬼灯を陥落させようとするのか、ちょっとした余興を楽しむような、娯楽を求めるような。なまえに向けるのはそんな思いだった。

後々に、心ごとさらわれてしまうような恋に落ちることになろうとは考えもしなかったのだ、この時は。


「せいぜい頑張ってください」
「がんばります!」


閻魔寮へと向かう長い長い廊下の真ん中、さらりとした白木が敷かれた道。色気も何もないようなそこが、なまえと鬼灯の繋がりを深めることになった最初の場所だった。


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