小説 | ナノ




暗闇の中、鈍い銀色に光るそれを握り、そっと回す。音を立てまいと全身全霊を注げば、泥棒の心情を理解出来たように思えて内心苦笑した。
扉を引くとアパートの住人たちを深い眠りから連れ戻してしまうのではと危惧するほどの金属がこすれる高い音が鳴り響き、思わず肩を跳ねさせる。

ばくばくと煽られる心臓を押さえつつ、冷えた床板に足をつけた。


「おかえりなさい」
「ひい!ちょ、丁くんまだ起きてたの?」
「なまえさんの足音で目が覚めました」
「ご、ごめん…ただいま」


居間で眠りに囚われているだろう彼を起こさず如何やって部屋に戻ろうかと思考を巡らせていたのだが、その必要はなくなったようだ。

一歩踏み出した途端降りかかった声と、廊下の先にぼんやりと浮かび上がる小さな影にどきりと縮み上がる心臓。
その普段よりいささか低い声色に怯えつつ、彼と交わした数日前の会話を思い起こす。


「何ですかこの、茶色い物体は」
「これ?甘くて美味しいチョコレートっていうお菓子だよ。もうすぐバレンタインだからねぇ」
「ばれんたいん?」


ふたり並んで見つめる液晶に映し出されたそれはとろりと蕩け、鼻にからみつく甘いにおいすら立ち込めてくるようだ。どうやら来たるバレンタインデーに向け、手作りのチョコレートを特集しているらしい。

未知の物体に目を釘付けにする彼へ微笑みを寄せると、こちらを見上げた丁はふらりと瞳を漂わせてから再びテレビを眺め始める。

なまえと過ごすことに未だ慣れないところがあるのか、流れるような黒髪からのぞく耳のふちがほんのりと色づいていた。


「チョコ、食べてみたいの?」
「この時代のものには興味があるので……」


言い訳じみた科白を並べる丁は、目に鮮やかに映える菓子に心惹かれた様子で、いつもは落ち着いた黒が沈む瞳もどこか輝いているように見えた。

この小さな部屋に馴染んできたとはいえ、彼にとってはまだまだ不可思議なものがたくさん詰まっている世界が目の前に広がっているのだ、知識欲を満たそうと行動する丁の気持ちもわかる。

だからなまえはこの時ひそやかに心を決めたのだ、丁のために、いわゆる手作りチョコを作ろうと。
しかしひとり暮らしゆえ自炊はこなせるけれど、お菓子づくりはまた事情が違う。

きっと丁が初めて口にするだろう甘味の思い出を、なまえのささいな失敗のせいで台無しにしたくはなかった。
当日までには腕を上げておきたい、そう思案したなまえは、バレンタインデーまでの数日間、丁が寝静まった宵のうちに家を抜けだし友人の自宅で練習を重ね、夜も更けた頃ベッドへ潜り込む、という日々を続けていた。

講義中にうたた寝をしてしまって教授に怒号を飛ばされたことは何度かあったが、丁を想えば痛くもかゆくもなかった。
それでも彼に隠し事をしている事実は胸をちくちくと苛んだけれど、これもひとえに丁が咲かせるあの淡い笑みのため。
なまえの胸にまで優しいぬくもりを与えてくれるやわらかにゆるんだ頬を見たいからだった。


そうして迎えた14日の子夜。
試行錯誤し努力を積み重ねて出来上がったそれを鞄に忍ばせて、泥棒よろしく帰宅したなまえを待っていたのはその丸い瞳を眇め、こちらを射すくめる丁の姿。
彼からかすかな怒気が漂っているのは気のせいだろうか。否気のせいだと願いたい。

焦りを感じながら、紺碧の空を切り取る窓へと意味もなく視線を巡らせつつ、口を開く。


「あ、あの…」
「何時だと思ってるんですか」
「ええっと、……1時?」
「こんな時間まで一体どこで何をしていたんです?女性が夜に出歩くなんて危ないでしょう、なにかあったらどうするつもりだったんですか」
「ご、ごめ」
「なまえさんはもう少し考えて行動すべきです、大体貴女はいつもいつも…」
「ち丁くん、ごめんね心配かけて」
「心配なんて」
「してくれたんだよね?」
「……しないこともないですけど」


謝ることすら許されず次から次へとまくしたてられるお小言も、きっとなまえを心配する想いから生み出された言葉。
それを優しく問いかける彼女に、始めはむっすりと唇を引き結んでいた丁もふらっと目を逸らしながら頷いた。

照れくささもあるのかこちらを見ようともしない彼の眉根が気難しく寄せられているのに気がついたなまえは、丁の目線までそっと屈むと、幼いながらに整った顔をすくいあげるように覗きこんだ。


「あのね、これには理由があって……」
「…なにか、匂いがします」
「うん?」
「なまえさんから」
「ああ、それは…」


予定より少し早いけれど、バレンタインデーには違いない。

鞄から丁への感謝や諸々の想いが込められたそれを取りだそうとしたなまえより早く彼女へと顔を寄せた丁は、おもむろにその髪を一房すくいとる。

甘い花の香りに誘われた夢見鳥のように、またあるいは母のぬくもりを求める幼子のように。丁はやわらかななまえの髪束へ指先を遊ばせるように潜り込ませて鼻先を近づけた。

柔い蜘蛛の糸を思わせるその感触ととろりとした甘さの中に見つけたほのかなにおいは、いつか彼女に抱きしめられた時優しく鼻をくすぐった心地よいそれ。
ほっと胸が和むのを感じながら視線を持ち上げたその先で、存外間近にあるなまえの虹彩がゆるくきらめく。


「ちかいです」
「丁くんが近づいてきたんだよ!?」
「…あまいですね」
「チョコレートの匂いだよ。丁くんにまずい物は食べさせたくなくて友達の家で練習させて貰ってたの」


どうやら機嫌は治ったらしい丁にとりあえず安堵しながら立ち上がったなまえは彼のあどけない手のひらを握る。
どれほどの時間廊下に佇んでいたのか定かではないが、いつもなまえにあたたかな熱を伝えてくれるその肌はすっかり冷えてしまっていた。
なまえよりひと回りもふた回りも小さな丁のやわいそれを包み込み、居間へと移動する。

手の中でなまえの体温を受け取る丁の手がやわくほどけていくのを感じ、きゅっと力を込めた。


「ごめんね、内緒じゃなくて一言言えばよかったね」
「いえ……それも楽しみがなくなるのでいやです」
「でも丁くんこんなに冷えて…」
「…なまえさんがあたためてくれましたから」


それはこの身だけではなく、心という不確かなものでさえ。
彼女と言葉を交わすと、彼女に触れると温湯の最中をたゆたっているようなぬくもりにくるまれる。

指の先にまで沁み入る優しい熱。それが丁をひどく安らがせるものだから、なまえから離れ難くなるのだ。
ずっとこの場所に留まって、彼女の隣でこの安寧に甘えていたくなる。

きっとそれは叶わないことなのだろうけれど。


「はい、どうぞ。よかったら開けてみて」
「開けてもいいんですか?」
「だってこれは丁くんのだもん」
「…」
「あっ手作りチョコなんて何年も作ってないから期待しないでね!」


なまえが丁を想い、丁のためだけに拵えてくれたもの。
そう思うだけでじんわりと熱を灯す胸にくすぐられたような想いになり、思わず俯いてしまいながらなまえから贈られた箱を見つめる。

シンプルな白い箱に、控えめな愛らしさのあるリボンが結われただけの簡素なそれ。なまえらしい飾らないその見目に不思議と惹きつけられる心を認めながら、そっとリボンを解いていく。


「どうかな!?」
「まだ食べていませんよ」
「だ、だよねぇ」
「たくさん練習したのに心配なんですか」
「だって丁くんが初めてチョコを食べるんだよ!まずかったらって思うと…」
「まずかったら、また作ってください」
「え」
「いつか」
「……ん」


彼女との間に降り積もるいくつもの脆い約束を、守ることの出来る日が訪れるよう願う。

かすかに目を伏せて頷くなまえを見つめながら、露わになった甘い塊を口に運んだ。あまやかに溶けるそれに何故だか胸を締め付けられ、湧き上がる衝動のまま手を伸ばす。

そうして繋ぎあった手を、なまえの体温を今だけは捕らえておきたかった。
指先をふるわせれば彼女からもぎゅっと力を込められなまえと重なった心を知った丁は、ふわりと眦をゆるめたのだった。


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