小説 | ナノ




彼、白澤の助手として住み込みで働き始めて半年が経つ。薬剤師という夢を叶えるために神獣である白澤の元に身を置いたのだが、ここは存外居心地のよい場所だった。
それも人当たりがよく常に優しい白澤のおかげだろうか。


「なまえちゃん、そっちの薬草取ってくれない?」
「はい」
「ありがと」


いつもやわらかくなまえを見つめている瞳はくつくつと煮え立つ鍋をのぞきこんでいる。真摯な光を宿す虹彩と端麗な横顔にしばらく魅入られてしまう。薬を調合するこの時が彼を1番魅力的に見せる一瞬だと思うのだけれど、きっとそれはなまえしか知らない。


「…そんなに見られると照れちゃうなー」
「え、あっごめんなさい…!」
「ううん、なまえちゃんの熱い視線ならいつでも大歓迎だけど。暇だった?」
「い、いえ!勉強になります!」


ぱっと頬に赤を散らしながら持っていた手帳に慌てて調合法を書き込む。ぼうっと見惚れている場合ではなかった、薬剤師になるために白澤からいろいろな知識を吸収しなくてはならないのだ。
…けれどそうしたら、もう彼から学ぶことがなくなったら。白澤とこうして穏やかな時をともに過ごすこともできなくなるのだろうか。

思わず手が止まってしまう。
白い紙にうずめた筆先がじわじわと黒い染みを作っていくように、なまえの心にも何か冷たいものが染みていく。
1度も考えなかったわけではないけれど、なまえを助手に雇ってからというもの、白澤は彼女に付きっ切りで構っていてくれたからいつまでも隣に居られるのだと思っていた。

女遊びが激しいと聞いていたが、その噂に反して女性と戯れているところは見たことがない。
偶に店に訪れる鬼神様が物珍しそうに白澤となまえを見比べていたことを思い出す。もしもなまえの存在が彼の行動に制限をかけているのだとしたら。

思考の波にさらわれていたなまえの意識を呼び戻したのは、ひらひらと目の前を泳ぐ白澤の手だった。


「大丈夫?少し休憩しようか」
「…いえ、平気です」
「平気そうに見えないから言ってるの。お茶淹れるからこっちおいで」


手を引かれるままに大人しく従うなまえに、白澤は整った眉をきゅっと寄せた。

彼女には珍しく心ここにあらずといった風だ。その目にわずかな翳りを見とめて懸念を抱く。
何か悩みでもあるのだろうか。


考えながら湯呑みを用意する。白地にたおやかな桜が描かれたそれは、なまえがここで働くようになってから購入したものだ。
どうせならとお揃いで買ったふたつの湯呑みが仲良く戸棚にならぶ様にだらしなく頬をゆるめるのは、もはや癖になってしまっていた。

そう、白澤は一生に一度ともいえる恋心をなまえに寄せているのだ。

以前は朝まで花街で過ごすことも多々あったが、彼女と出会ってからは女を呼ぶ度になまえの顔がちらついて、恋仲でもないのになまえを裏切っているような気分にさせられて。良心が苛まれるような感覚に耐えられず、女遊びはぱたりとやめた。

そんな白澤にあの常世の鬼神が奇妙なものでも見るかのような視線を投げたのをおぼえている。
自分でもおかしいと思う。白澤が女との関係を絶つことでなまえとの間に得られるものは何もない筈なのに、それでも白澤の心の髄にある想いが他の女に触れようとする度に熱をともなった痛みをじくりと放つのだ。

自分ではどうしようもないそれに、もう諦めることにした。
なまえを愛してしまっているのだと認めることにした。

するとどうだ、今までもやもやと胸を覆っていた重たい霧が晴れたかのように清々しい気分が白澤を迎えてくれたのだ。
もうこれはなまえを大切に大切に想っていろという神からのお達しだと思ってしまうくらいだった。万物の知識を持つ神獣が何を、と嘲笑われるかも知れないが如何せんこんな甘さをふくんだあたたかい感情を胸に灯したことはなかったものだから許してほしい。

兎にも角にも、白澤はなまえに恋をしているのだ。好いた人が何か思い悩んでいるときに力になりたいと思うのは当然の想いだと彼女に学んだ。

だから、とゆるく唇を動かす。


「何か悩んでいるんだったら話してごらんよ。ほら僕って神獣だし知識だけはあるし、力になれると思うんだ」
「……でも…」
「………ごめん、嘘。僕が個人的に君の力になりたい。だからお願い、なまえちゃん」


テーブル越しに手を取られてなまえはぴくりと肩を揺らす。白澤はひどく柔らかい動作で彼女の手を握って、そっとなまえの顔をのぞきこんだ。
その優しすぎる眼差しに促されて、なまえはたまらず口を開いた。


「迷惑なんじゃないかと思って…」
「え?」
「私みたいなのがいきなり同居することになって、白澤さんのしたいことも出来ないんじゃないかって」
「僕のしたいこと?」
「あ…女の人、と、」


そこまで口にして言葉を切ったなまえにああ、と頷く。
誰に聞いたのか白澤の女癖が悪いことは彼女の耳にも入ってしまっていたらしい。遊びに暮れていたことを後悔してはいないが、この時ほどなまえともっと早く出会っていればと思ったことはない。具体的には白亜紀くらいに。

そんな白澤を知ってか知らずか、しゅんと肩を落としたなまえはぽつりと言葉をもらす。


「あの、迷惑なら言ってください。私今からでも他の薬局を、」
「ちょ、ちょっと待って!迷惑なんて思ってないしなまえちゃんを追い出すような真似しないよ!……それには理由があるんだ」
「……?」


不安そうにゆらゆらと瞳を揺らすなまえに暫く迷うように逡巡する。
告げてしまっていいのだろうか。純粋に東洋医学を学ぼうとしている彼女に、白澤のどうしようもない恋情を。

だんだんと眉を下げ、かすかに瞳を潤ませるなまえに焦るやら無駄な知識ばかりを詰め込んで好意を伝えるための科白も考えつかない自身の頭に苛つくやらで、半ば自棄になる。
どうにでもなれという思いで椅子から立ち上がり、彼女の傍に歩み寄った。


「確かに女の子と遊ぶことをやめたのは、なまえちゃんのせいだ」
「じゃあやっぱり私…!」
「でもそれは仕方ないことなんだよ、だって好きになっちゃったんだから」
「…え?」
「僕って意外と一途だったらしくてさ、好きな子じゃないと…なまえちゃんじゃないと女の子に触れることも出来なくなっちゃった」


にこ、と他愛のないことのように瞳を細めて笑った白澤を、なまえは信じられない思いで見上げる。

丸い目を更に大きくして瞬きを忘れたように白澤を見つめるなまえに、意識せずとも頬へほんのりと熱が集まった。
白澤だって男なのだ、神獣という特殊な肩書きはあるものの、愛を教えてくれた彼女からの視線を一身に受ければ顔も赤くなる。
加えて初めての告白。
そりゃ今まで歯の浮くような科白を舌に乗せてきたけれど、本当に心から好きな人に伝えるのは初めてだ。

白澤のそれにつられたようになまえもほわりと頬を染めていく。ゆるい弧を描くそこにそおっと指先を滑らせた白澤は、もう1度ゆっくりと想いを音に、言葉にする。


「好きだよ」
「………あ、あの…私」
「うん」
「私、いつか白澤さんの隣にいられなくなるのかなって考えたら……すごく胸の辺りが冷たくなって、嫌だと思ったんです。女の人に笑いかける白澤さんを想像したら、私を見てって思ってしまいました。……どうして、でしょうか」


一言一言考えながら言葉をつむぐなまえに白澤は、もしかして、と希望の灯を見出す。
なまえも白澤と同じ気持ちを心に宿していたとしたら、こんなに嬉しいことはない。
こちらをじっと仰ぐなまえの両頬を慈しみながら手のひらで包み込んだ。


「教えてあげる。それが好きってことだよ」


そのまま彼女を引き寄せて、こつんと額を合わせる。こうすると額の目に違和感はあるが、それ以上に胸を満たしていくいとしさに身を委ねるとこの小さな容れ物では収まりきらないくらいの幸福感があふれた。
夜空にまたたく星屑を閉じ込めたような瞳と白澤のそれがからみあう。おずおずと白衣を握るなまえの仕草ひとつに恋しい想いがこぼれていくようだった。
その鼻先が触れるほどの近い距離にどちらからともなく笑いあって、あまやかで恋しい想いのかけらを噛みしめた。


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