遠い記憶、そして、あの旋律──
今から5年前、母が病気の為この世を去った。
故郷である夜兎国を離れ、父の仕事の都合で日本で暮らしていた私の家族だったが。母の死を機に父は故郷に帰ろうと言い出し、高校入学を控えていた兄は日本に残りたいが為に父と派手なケンカ(血みどろの壮絶バトル)を繰り広げた。勘当同然で家を飛び出した兄を残し、私は父と日本を去ることになった。
──そして故郷に帰る前日。私は忘れられない人との出逢いを果たした。
『ヘッタクソ〜』
開口一番、そう言ってのけた少年。そいつは兄によく似たイヤミな笑顔を貼り付け、全力でバカにしてます的なオーラを纏っていた。
「折角のグランドピアノが泣くぜ? そんなヘボい演奏じゃ」
「余計なお世話アル!」
ピアノは亡き母の形見で、母が弾く旋律に合わせて歌うことが好きだった私を慰めてくれる大切なモノ。……確かに私のピアノの腕は壊滅的で、返す言葉もないのだが。だが、しかし。わざわざ他人の家の窓から覗き込んでまで言うことでもないではないか。
「私が得意なのは歌アル! ピアノは、マミーが弾いてくれてたのヨ」
「……くれてた?」
「私を置いて、死んじゃったネ」
「そ、っか。悪かったな。からかったりして」
「別にいいヨ。ヘタなのはホントだし、マミーに練習するように言われてたのにサボってばっかだったから……」
気づけば、いつの間に窓を乗り越えたのか、目の前には胡散臭いくらいに目鼻立ちの整った美少年が。窓枠にさり気なく腰掛ける仕草まで、絵になっていた。
「……不法侵入アル」
「人聞きわりーな。ちっと涙拭きに来ただけでさァ」
「涙?」
首を傾げる私にゆっくり近づいてきたそいつは、ためらうことなく親指で私の頬に流れていた滴を拭った。しょっぺーな、なんて舐めて見せながら。
「何勝手に舐めてるアルかー! 神楽様の分泌物は高くつくアル!」
自分が泣いていたことにすら気づいてなかったのに。なんでこんなヤツに慰められるような事態になっているんだ。仕方なく、照れ隠しにフンッとそっぽを向いてやれば。そいつは吹き出しそうになるのを堪えているように見えた。
「なァ。ピアノ、弾いてもいいか?」
「……へ? オマエが?」
コクリと頷くそいつを見上げ、意外なその発言に驚きながらもイイヨ、と許してしまっていた。
ピアノの前に座り目を閉じるその横顔に、瞬間的に心臓がドクリと音を立てた。真剣な眼差しが鍵盤を見据えた時、もう既に私はヤツの世界に捕らわれてしまっていたのだろう──。
奏でられる音色は、澄んでいて。隙間の開いた心にスーッと入り込んでくる暖かさも含んでいて。
「鎮魂歌(レクイエム)……」
「えっ?」
「お前のオフクロさんに、捧げるよ」
「──ありがと、アル」
止まっていた涙がまた溢れてきて、ゆっくり頬を伝っていった。母に、届いているだろうか。この旋律が。胸の奥底まで染み込んでくる、繊細なようでいて深く響き渡るこのピアノの音が。
──泣き止んだ私の頭にポンポン、と軽く手が乗せられた。
「俺、ピアノやめようかと思ってたんでさァ」
前触れなく呟かれた言葉にすぐには反応出来ず、目を見開いて次の言葉を待った。
「ちぃと優れた技術があるからって、調子に乗ってたとこもあった。当然そこを批評家連中に叩かれて。挙げ句の果てに親は事故で2人とも死んじまうし、姉さんは嫁に行っちまうし。マジで踏んだり蹴ったりだったんでィ」
「オマエも、親死んじゃったアルか……」
「ああ、気にすんな。俺はそれに関してはメソメソしてた訳でもねーし」
「どうせ私はいつまでもメソメソしてるアル」
わざと拗ねて見せれば、ヤツは困ったようにしていて。少し気分がよくなったように思えた。私も大分ひねくれているらしかった。
「おい」
「ん? 何アルか?」
こっち来い、と手招きするヤツに素直に従ってピアノの脇に立った。
「お前の歌、聴きてェ。何か歌って」
「い、いきなりかヨ!?」
アワアワと手をバタつかせるも全く動じることなく、発声練習的なメロディーを奏で始めやがった。ドミソミドーとか、ドミレファミソファレドーとかいうアレ。複式呼吸で低音から高音に上がって歌ったりする、アレ。基礎からやれってか、コノヤロー。神楽様ナメんな!
「オマエ、シャンソンも弾けるアルか?」
「は? また随分マニアックな……」
「弾けるか弾けないか訊いてるネ。ついでに言うならサティ弾けヨ」
「待て待て。命令になってんぞ、テメー。──サティ、って“Je te veux”でいいのか?」
「弾けるアルか!?」
すげーコイツ! 私のお気に入り曲まで弾けるってのか。
「ホレ、歌ってみろよ」
「フン。神楽様の歌にひれ伏すヨロシ!」
お互いに挑発的に睨み合い。それを合図に、私はすーっと息を吸い込んだ。
♪J'ai compris ta détresse,
Cher amoureux,
Et je cède à tes v Sux,
Fais de moi ta maîtresse.
Loin de nous la sagesse,
Plus de tristesse,
J'aspire à l'instant précieux
Où nous serons heureux: Je te veux.
いいんじゃねーの、と上から目線な感想を貰った。多分、こいつからすると立派な褒め言葉。だって、その表情は嫌みったらしいんじゃなく、満足そうな笑みだったから。
「俺、ピアノやめねーからさ。お前も歌、続けろよ」
「おうネ!」
「どうせだったら、ちゃんと勉強すればいーじゃん。お前なら歌手とかなれんじゃね?」
どうやら私はヤツの音楽家としての感性を揺さぶったらしかった。その後、延々とよく分からない音楽理論みたいなのを聞かされたりしたし。……まあ、ちっとも頭には入らなかったんだけど。
だって、私の目は。それをキラキラした瞳で語る、私以上に子供みたいな無邪気な笑顔に、捕らえられてしまったのだから。
そして、5年経った今も尚、その笑顔に捕らわれ続けている。
子供すぎた私にはあの頃気づけなかったけれど、確かにあの瞬間、私は恋に堕ちたのだ。今なら、自信を持って言える──あれが、私の初恋だったんだ。