16.
真夏の夕方は、まだまだ日が落ちる気配もなく暑さは和らぐことを知らない。
額を汗が伝うのを感じながら、岬はふうとため息をついた。
「ヒカル、疲れてないかー?」
自身の服の裾を掴みながら隣を歩くヒカルに、岬は気だるさの残った声音で声をかけた。その声に顔を上げたヒカルは、大丈夫というようにはにかみ笑う。
それを見て、岬はほっとしたように瞳を細め、ヒカルの頭をぽんぽんと撫でた。
「良い子だ。けど、疲れたらすぐ言うんだぞ? 自転車座らせてやるからな」
そう言いながら引いている自転車のサドルを叩いて示せば、ヒカルはわかったというように頷いた。
ーー巡回の名目でヒカルと二人、交番を出たのは15分程前のことだ。
岬が一人で出かけるのを不安がるヒカルに、暫くは小谷達に巡回を任せていたが、ずっとそういう訳にもいかないだろう。
『ヒカルくんも大分体力がついてきたみたいだし、散歩もかねて一緒に行って来たらどうだい?』
どうしたものかと悩んでいた岬が、芝浦にそう提案されたのは一週間程前の話だ。
幸い、岬が配属されている鈴川交番の管轄は大きな事件もない穏やかな町だ。ヒカルを連れていても問題はないだろう。
それからこの一週間、岬が巡回の時には二人で行くようになったのだ。
退院したばかりの頃は10分も歩けばぐったりとしてしまっていたヒカル。それを思うと、ついつい過保護になってしまう岬だったが、本人が大丈夫と言う通り、無理している様子はなく元気に歩いている。
退院してからもうすぐ一か月。慣れない二人での生活に怒涛のように過ぎていった日々だったが、そんな中で、ヒカルは少しずつ体力を回復していたらしい。
少しずつ、だが確実に成長しているヒカルの姿に、岬は自然と笑みが深くなった。
「!」
それから暫く歩き、少し先に見えたタバコ屋の姿が見えてくると、ヒカルはぱっと瞳を輝かせた。そこには、タバコ屋のカウンターの上を陣取って、悠々と昼寝をする三毛猫ーー看板猫のハナだ。
一緒に巡回に出るようになったヒカルの、一番楽しみな場所がここだ。
初めて一緒に巡回に出た時にヒカルが初めて目にした猫は、とても穏やかな性格のようで。ぬいぐるみのようにふわふわで柔らかなハナに、すっかり虜になってしまっている。
「そんな急がなくても、ハナさんはどこにも行かないぞ?」
そんな岬の言葉など関係ない様子で、早くと言うように自身の手を引っ張っていく。
それに岬は「わかったわかった」と答えながら、もう片方の手で自転車を引いてタバコ屋へと向かった。
「ああ、ヒカルちゃんこんにちは」
ヒカルが岬の手を離して、カウンターから猫越しにひょっこりと顔を覗かせれば、奥にいた店主の老婦人ーー梅(うめ)が顔を綻ばせた。それに、ヒカルも嬉しそうに“こんにちは”と口を動かして答える。
梅にも、例のごとく初対面の時に女の子と間違われたのだが、可愛いからとその後も変わらず“ヒカルちゃん”呼びだ。
「今日も可愛いねぇ。岬さんにしてもらったのかい?」
その言葉にヒカルはハナの頭を撫でながら嬉しそうに頷く。うさぎの髪留めが付いたポニーテールが楽しそうに揺れた。
ーー退院の時こそ女の子みたいだと思ったその髪型も、日々の暑さを考えれば一番涼しく過ごせる髪型だとわかる。それに納得してからは、毎日岬が結ってやるようになり、髪を結った経験などなかった岬の腕も大分上がってきていた。
「こんにちは、梅さん」
楽しげな二人の会話をヒカルの後ろで聞いていた岬が声をかければ、梅が笑みを深くしてそれに答える。
「岬さんもいらっしゃい」
「今日も暑いですね。変わりないですか?」
岬が住民と交わすいつもの挨拶を口にすれば、梅もいつもと変わらない様子で頷いてみせた。
「今日も平和だよ。暑くて猫も通らない」
その言葉に岬は困ったような笑みを浮べれば、腕時計を見る。ーー針は17時手前を指していた。
「もうそろそろ買い物に出る人も増えそうですけどね」
その言葉に、梅が笑みを浮かべたままそう声をかけた。
「あんたはお客じゃないのかい?」
「俺ですか?」
あぁ、とうとう聞かれたか。内心そんなことを思いながらそう言えば、梅が頷く。
「最近、買っていかないじゃないか」
「ーー今禁煙中なんですよ」
その言葉に観念して、岬はそれを告げた。別に隠そうと思っていた訳ではないが、タバコ屋である梅にそれを告げるのは少し気まずく感じるのは自分だけではないだろう。
「前はあんなに吸ってたのにねぇ」
以前は毎日のように梅の店で煙草を買っていたことを暗に言われれば、岬は「そうなんですけどね…」と苦笑をこぼしながら視線を逸らす。
確かに、自分でも禁煙する日が来るとは思っていなかった。ヘビースモーカーという訳ではなかったが、食事や睡眠と同様に当たり前のように喫煙する習慣は、10年近く続いていたものだったのだから。
岬はハナに夢中になるヒカルに視線を落とし、小さな頭を撫でやりながら答える。顔を上げたヒカルが、岬を見て嬉しげにはにかんだ。
「たまに吸いたいなーとは思いますけどね。ーーヒカルの前では吸いたくないな、と」
「やめようと思える理由ができた時がやめ時だよ」
自然と浮かんだ岬の柔らかな表情に、梅は微笑みを浮かべてそう言えば、自身の煙草に火をつけた。それ以上、何も言う気のなさそうな様子で美味しそうに煙草を燻らす梅に、岬が問いかける。
「梅さんはやめようと思うことはなかったんですか?」
「私がやめるのは、この店をたたむ時だよ。ーーまあ、まだまだ先かねぇ」
そう言い切った梅は、こちらへ向かって歩いてくる男性の姿を認めて、にんまりと笑った。ーー店の常連なのだろう。
そんな梅の様子に、岬も笑みを返せばヒカルに声をかけた。
「ヒカル、そろそろ帰るか」
その言葉に、ヒカルはこくりと頷く。
またね、と言うようにハナの頭を撫でてから岬の腕に抱きついてきたヒカルに、岬は優しく頭をぽんぽんと撫でた。
「ヒカルちゃん、またおいで。ハナさんも待ってるからね」
梅の言葉に、ヒカルは嬉しそうな笑顔を浮べれば大きく頷く。梅とハナに見送られながら、二人手を繋ぎ、岬は自転車を引いて歩き出す。
暫く立ち止まって休めたこともあってか、ヒカルの足取りはしっかりしている。この様子なら、自分の足で歩いたまま交番まで帰れるだろう。
「ヒカル、コンビニ寄って帰るか」
「?」
突然の誘いに首を傾げるヒカルに、岬は楽しげに笑いながら言った。
「小谷がプリン味のアイスが出てたって言ってたぞ」
「!!」
プリン、の言葉にヒカルの目が輝く。わかりやすいその反応に、岬はぷっと噴き出した。
「買って帰るか?」
その言葉にヒカルは大きく頷く。
「よし、じゃあもうひと踏ん張りな」
まだまだ暑い夏の夕方。交番へと帰る二人の足取りは軽やかだった。
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