14.
「ヒカルくん、寝ちゃいました?」
ヒカルと二人で休憩室へと行った岬が一人で戻れば、ディスク作業をしていたらしい小谷が顔を上げた。
その言葉に頷きながら、岬も自分のディスクへと腰を下ろす。
「あぁ。入院中と比べても大分動いてるしな。暫く起きないだろ」
交番の休憩室は夜勤をする職員の仮眠室でもある。テレビを見ながら、うとうとと船を漕ぎ出したヒカルに布団を敷いてやれば、すぐに寝息を立て始めてしまった。
穏やかな寝顔を思い出し、無意識に微笑を浮かべながら答えた岬に、小谷はしみじみした様子で口を開いた。
「ーーヒカルくん。本当に良い子ですよね」
「あぁ」
先ほどまでのヒカルの様子を言っているのだろう言葉に、岬は頷く。
休憩に入るまでの時間、ヒカルはずっと仕事をする岬の傍らで、岬の様子を伺いながらも邪魔をすることはせずに、岬が用意していた本やお絵かき帳で一人遊びをしながら過ごしていた。
小谷は暫し悩むように口を閉ざしたあと、ゆっくりと口を開いた。
「…あの子が、あの現場にいたなんて想像できないです」
小谷の言葉に、岬は遠くを見ながら黙り込んだ。
小谷と岬が家宅捜査に入った、ヒカルの母親が殺害されていた狭いアパートの室内。今でこそ無邪気な笑みを浮かべるヒカルが、あの壮絶な事件現場の室内に確かにいたのだ。押入れに隠れて、必死に生きようとしていた。
あの、綺麗な緑色の瞳を恐怖の色で染めていたあの時のヒカルを、岬は今でも忘れることはできなかった。
「ーーいたんだよ。あいつはあの部屋で、必死に生きようとしていた」
岬の強い言葉に、小谷が僅かに戸惑いを残した様子で頷く。
そういえば、あの部屋の中にいるヒカルを直接見たのは俺だけだったな。素直で無邪気なヒカルの姿を見たせいか、あの事件とヒカルがいまいち結びつかないらしい小谷の様子に、岬は無理もないかと苦笑を浮かべて口を開いた。
「…お前、あいつの歳覚えてるか?」
ヒカルの個人情報は事件当初、ニュースでも好き勝手に話題にされていたことだ。だが、マスコミの取材関係で当時も散々文句を言っていた小谷は、ニュースの内容をそこまで細かく覚えていなかったらしい。
「ヒカルくんの? …6歳とかそのくらいですよね?」
まぁ、あの外見だもんなぁ。小柄なヒカルの体格を思い出しながら問い返された言葉に、岬は苦笑を浮かべると首を横に振りながら答えを告げた。
「ーー9歳だよ。推定、だけどな」
「え…? だって、あんなに…」
あんなに小さい。小谷が言おうとした言葉に、岬は苦笑する。
「外見的にはな。身長は本当6歳とかそこらだし、体重は6歳児の平均と比べてもかなり軽いよ」
「っ…」
息を飲んだ小谷の、握り締めた拳に力がこもる。岬にも、小谷が怒りを感じているのがわかった。
「あんなにちっこくてさ。話すことも出来ない。言葉の意味も、食事の仕方もわからない。泣くことすら出来なくなってーーそんな中でもさ、生きてたんだよ。あいつは」
保護してからのヒカルの姿を思い返しながら、そう話して。そして、力強く言った。
「ーー強い子だよ」
そう、強い子だ。あんな絶望的な環境の中で、生きることをやめなかったのだから。誇らしそうにそう言う岬の口元には自然と笑みが浮かぶ。
その時だった。
ーーカタン
不意に交番の奥から聞こえた物音に、二人は揃って顔を上げた。
「起きたか…?」
様子を見に行こうと岬が腰を上げ、休憩室へと向かおうかと思えば、それよりも早く、ヒカルが姿を現した。
「ヒカルくん、おは…」
笑顔で声をかけた小谷が、表情もなく立ち尽くしたヒカルに、それ以上言葉を続けられなくなる。
あぁ、また悪夢を見たのか。光をなくした緑色の瞳に、岬はぐっと込み上げるものを抑えた。
少しずつ表情を豊かにさせていくヒカルがたまに見せる、保護した日に見たものと同じ、感情をなくした表情。それを見るたびにヒカルの中にある消えない傷を感じて苦しくなる。
ーーそれでも、それを少しでも癒してやりたい。
「ヒカル。…おいで?」
岬は優しくヒカルの名前を呼ぶ。微笑を浮かべて腕を広げると、ヒカルの瞳に光が戻った。
その表情がゆっくりと歪んだかと思えば、緑の瞳から大粒の涙があふれだす。裸足のままなのも気にせずに床に下りると、もつれそうになる足で岬の元に駆け寄り、その腰に抱きつく。
「大丈夫だ、ここにいるよ。大丈夫。大丈夫」
「っ……」
飛び込んできた小さな身体をしっかりと受け止めてやれば、岬はその場に屈み、安心させるように両腕でしっかりと抱きしめた。岬の大丈夫の言葉を聴いて、声もなく泣き続けるヒカルの身体の震えが、少しずつ治まっていく。
ようやく泣きやんだヒカルを抱き上げれば、岬はヒカルを膝に抱えて自分のディスクへと腰を下ろした。
泣き疲れた様子のヒカルが、胸元に擦り寄りながらうとうとし始めれば、岬はぽつりと言葉をこぼした。
「…ヒカルさ。良い子だけど、良い子すぎるんだよ」
不意に言われた言葉に、小谷が首を傾げる。
「良い子すぎ、ですか?」
「そ。近所のチビ達見ててもさ、結構生意気だったりするだろ? 態度だったり、言葉遣いだったり」
岬の言葉に、小谷は暫し考えて頷く。
「あー、まぁ確かに、生意気盛りっすよね」
巡回中、イタズラをする小学生位の子供に注意をするのは良くあることだ。軽い注意が中心ではあるが、素直に謝る子供もいれば、捨て台詞を吐いて逃げていく子供だっている。それを思い出して苦笑を浮かべる小谷に、岬は軽く笑って、再び口を開いた。
「こいつはさ、言わないんだよな。喋れなくても、何かしら訴えることは出来るだろ。けど、言わないんだよ。してほしいとか、嫌だとか、言わないの。今日だって、普通の子供なら、飽きて遊んでほしいだとかどこか行きたいだとか訴えてきそうなとこなのに。ヒカルは文句も言わないでずっと横にいるんだよ。で、こっそりこっちの様子を伺ってんの」
仕事中、ずっとヒカルが岬の様子を伺っているのには気付いていた。何か言ってくるかと思いながら様子を見ていたけれど、ヒカルが何かを訴えることはなく。休憩だと一緒に休憩室に移動した途端、嬉しそうに甘えてきた。
そんなヒカルの様子を思い返して、岬が苦笑を浮かべながらヒカルの頭を撫でていれば、黙って話を聞いていた小谷が口を開いた。
「…今までが、我儘を言えるような環境じゃなかったってことっすよね」
「あぁ」
自分と同じことを感じたらしい小谷の言葉に、岬は頷く。
「ーー俺はさ、早くこいつに我慢をしないようになってほしいんだよ」
自分の気持ちのままに、したいこと、してほしいことを言えるようになってほしい。自分の気持ちを抑えるのではなく、気持ちをぶつけてきてほしい。
「こいつの我儘に、困らされたい」
そう、素直な気持ちを漏らす。そんな岬の言葉に、小谷がぷっと噴き出した。
「岬さん、それエム発言」
「ばッ! …そんなんじゃねぇだろ」
からかうように言われた小谷の言葉に、岬は大きな声を出しそうになるも、膝で寝息を立て始めたヒカルを思い出せば、声のトーンを抑えて文句を言う。
小谷はそんな岬の文句など気にもせずに、笑みを浮かべて言った。
「大丈夫っすよ。きっと、そのうち岬さんがいい加減にしろって怒るくらい、ヒカルくんに振り回されますよ」
根拠もなく言われた小谷の言葉。だが、そんな日を想像してみればとても楽しそうで。
「…待ち遠しいな」
ヒカルの寝顔を見ながらそう呟いた岬の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
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