>> Red Baron 05





飛行機は、自分にとって無くてはならないものである。飛行機が無くては、自分が生の無い物体と化すことは火を見るより明らかだ。それほどまでに自分は飛行機に依存し生きていると、黒羽は思っている。




黒羽の一日は機体の整備から始まる。愛機の傷の有無、塗装、メーターの確認。その他様々な点検を経てから朝食、トレーニング、昼食、晩御飯、そして自由時間には読書。眠る前には愛機を眺める。こうして一日の多くを機体の側で過ごすのだ。フライトの日は別だが、黒羽の一日というのは大抵一定なのである。


「…黒羽」
「…あぁ、工藤か。どうしたんだ、…夜這いか?」
「黙れ色欲魔が。…ではなくて、先日の礼を言いに来たんだ」
「礼?礼なぞ言われるようなことをした覚えはないがな」
「あの時計!…お前が寄越したんだろ」


黒羽はここで、ああ、と思い出した。工藤と共に街に出てジャンク屋に行った時に、黒羽は工藤に機械仕掛けの時計を黙って買ってやっていた。後々部屋まで届けてやったのだが、工藤はその礼を言いにわざわざこの油の散った汚ないガレージまで来たのだと言うのだから、伯爵様の上層教育には全く頭が下がる。黒羽は寝転んでいたシートから身体を起こした。工藤はもう勝手に脚立に腰掛けており、不機嫌な様子で赤い機体を睨んでいる。


「…ありゃあ店主が気を利かせたんだよ。次も是非黒猫様に来て頂けるように、ってなわけだ」
「…嘘言うな。あれは好意で人に遣れるような物じゃない。それなりの値段はしていたはずだ」
「……はぁ、頭の良い奴は面倒だな。そのまま黙って貰っておけばよいものを。律儀というか、何というかな」
「…嬉しかったんだよ。一個人である工藤新一として、人から物を貰って。…ありがとう」
「……気持ち悪いな、男から素直に礼を言われるというのは。いや、実に」


黒羽は困惑していた。人間に、ここまで感情を煩わされるというのは初めてのことであった。黒羽が感じるのは違和感に似ていたが、それとは非なるものであった。そのむず痒い感情に付ける為の名など黒羽は知らない。工藤と目を合わせるのが至極難儀なことに感じられた。礼を言われたことへの照れであろうか。比較的無表情な顔だが僅かに頬に赤みが差す。


「…まぁ、気にしてくれるな。俺の気紛れだ。それよりも昨日帰りに言っていただろう、推理小説が読みたいと。お前のご所望の本を持って行こうと思っていたんだが、困ったことに棟に入るのに階級が足りなくてな」
「…ああ、黒羽は階級が大尉だったか。それは悪いことをしたな」
「お前がこれ以上階級が上がると棟の出入りも出来ない上に、お前が動けなくなるぞ。俺はこれ以上階級を上げる気は無いからな」
「…善処する」


工藤の住まう部屋は空軍大佐とだけあってセキュリティがしっかりしている。佐官相当の身分が証明出来なければ入ることは不可能だ。一方黒羽の階級は大尉であるため、彼もセキュリティは万全の部屋に住んではいるが、より警備の厳しい指揮官の部屋に入ることは出来ないのである。黒羽は数冊の本を工藤に渡すと、機体の整備に戻る。明日はまた飛ばなければならない。最後のメーターの確認と、燃料の確認、エンジンの動作確認、コックピットの掃除。ヘルメットも綺麗にすれば今日は寝るだけだ。この夜の整備が飛ぶ前の日課だった。こうして機体に触れることで、少しでも高揚を抑えてやろうとしている。いわば安定剤の様なものだった。明日の作戦は早い。工藤の考えた作戦であるから、工藤自身もまたこの作戦の重要性に加え遂行の難しさも理解していた。この作戦の成功次第で戦局は大いに動く。大規模な戦闘になるであろうと黒羽は予測をつけていた。そして、多くの死者が出るだろうとも。自分がこれからも飛び続ける為には、機体の整備は欠かせなかった。しかし黒羽には不思議であった。かつて自分は空で死のうと、飛んでいるうちに誰か自分よりも飛行技術に優れた人間が撃ち墜としてくれはしないかと思っていたというのに、今では自分が生き伸びる術を探している。


「…黒羽、これ、やるよ」
「ん?」
「…折角高い物を貰ったから、これくらいは」
「…こんな高いもん」
「いいんだ、貰ってくれ。俺の付けた後で悪いが」


そう言って自分の手首から外したブレスレットを工藤は黒羽の掌に乗せた。青い貴石の付いた、見るからに高価だと分かる代物だった。黒羽は困惑する。人のあからさまな悪意や好意を一杯に含んだ物を貰うことには慣れていたが、純粋に人から物を貰うことに彼は慣れていなかった。どうしていいか分からないといった顔をしている黒羽の手首を工藤は握ると、そのブレスレットを付けてやった。嫌かもしれないが貰ってくれ、と切なげに工藤は言うとそのままガレージを後にした。黒羽はじっとブレスレットを見詰めたまま、息をする以外微動だりしない。


「…今ある感情は、歓喜だろうか」


黒羽は溜め息を吐いた。どうしていいのだか彼にはさっぱり分からなかった。ただ、黒羽の脳内を占めているのは嬉しいという感情であるということは自分でも分かる。それは、とうの昔に忘れたと思っていた感情だった。




黒羽の日常のサイクルは一定だ。飛行機から始まり、飛行機に終わる。黒羽にはその生活が苦痛でも何でもなかった。それが義務として与えられた仕事であるし、また彼自身がそうしたいと思っている。そうしなければ、自分が自分でいられないのではないかとさえ思っていた。吐いた息にキャノピーが白く曇る。布で拭いたクリアな視界の先で、明日も黒羽は深い青の世界を飛んでゆくのだ。空の青さにも似た貴石が電灯の光を受けて、一層煌めいた。




 


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