きっと、これはただの意地なんだろう。
「えーと、どちら様…?」
「狼総隊長からこちらにと、」
言いかけて私は言葉を切った。もしかして、狼から何も聞いていないのだろうか。玄関で出迎えてくれた女は当惑した様子で、首を捻っている。そこへ、赤い鉢巻を額に巻いた男が、何やらもごもごと口を動かしながら部屋の奥から顔を出した。
「この忙しい時に客人? 狼のやつ、何考えてんだ?」
男が言った通り、玄関と外を何やら疾風隊の半纏を着た隊士達が忙しそうに行ったり来たりしている。そういうこの男の方も腹ごしらえを急遽、済ませているといった感じだ。ここにいるのは何となく場違いなような気がして、どうしたものかと首を捻る。
「えー…、狼総隊長に後日改めて、忍が伺いますとお伝え願、」
「――お、来たな」
「!」
背後から声がして振り返ると、ひょっこりと暖簾の間から狼が顔を出した。ゆったりとした和服姿だ。その上に、半纏を羽織っている。
「狼、遅いわよ」
「悪いな。会議が長引いたんだ」
狼は私の横を通り過ぎ、玄関口に腰を掛けた。
「――静香、首尾の方は?」
「上々よ。桔梗からも滞りなく連絡が入ってる」
「よし。ところでなんだが、三蔵のやつが見物に来るらしい。間違ってお縄にしないように隊士に伝えとけ」
「三蔵が? わかったわ」
「――お話し中のところ、申し訳ないんですが、狼総隊長」
頼みごとというのは? 私は遠慮がちに話に割り込んだ。狼はにっこりと上機嫌に笑う。
「花街のとある店で、今晩、ご禁制の品の大きな取引があるって情報があってな、これから大捕物なんだ」
「はあ」
「その店には、ウチの二番隊隊長が潜入してるんだが、前日にヘマをしたらしくてな、どうも警戒されてて上手く潜り込めないらしい。そこで、忍ちゃんに頼もうと」
「狼、それなら私が」
「そりゃ無理だろ」
眉間に皺を寄せ、そう提案した静香に、十分に腹を満たしたらしい神城がこちらに歩いてきた。
「静香は、あのおっさんに顔われてるし」
「でも、――」
「――わかりました」
私が割と簡単に了承したのを見て、静香さんが目を丸くした。それに私は苦笑を浮かべる。まさか、色々な部署を転々とたらい回しにされていたのがここで役に立つとは思わなかった。
「大丈夫ですよ。こう見えて、潜入部門にもいましたから」
「よし、じゃあ早速。静香」
静香はため息をついて、奥の部屋へと私を促した。
「もしも危なくなったら、桔梗、……えーと、霧里(きりさと)っていう遊女を頼ってくれる? 仲間なの」
「わかりました」
疾風隊二番隊隊長のことだろう。噂に聞くには、男でありながら、異性だけでなく同性さえも誑かす美貌を持つらしい。もしかして、その美貌故に警戒されたのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、私は奥へと歩みを進めていった。
「さあ、一献」
「……」
赤い盃をなみなみと満たす酒に那智は顔をしかめた。元々、酒は嫌いだ。体に走る気だるさに苛つくし、味も好きではない。
「いい飲みっぷりでございますなあ」
何がいい飲みっぷりだ。判断力鈍らせようって腹だろうが、そうはいくか。それに薄ら笑いを返しながら、那智は心の中で毒づいた。表面上を取り繕い、短気であるのを隠すのは簡単だ。特に馬鹿が相手であれば。
「那智様には今後ともわ、」
「――失礼致します。お酒をお持ちいたしました」
「その声。霧里かい?」
「はい」
襖を開け、するすると近寄ってきた遊女に、男の鼻の下が完全に伸びてしまっているのを見て、那智は嘆息した。
(ったく…。いい歳して盛ってんじゃ、)
那智の思考がぴたり、と止まる。男にしなだれかかる遊女と目があった。まぶたに引いた紫が目を引き、美しく結い上げまとめた髪に挿してある簪が揺れる。
(……こいつ…、)
「? どうかなさいましたか?」
「いや、」
遊女は何食わぬ顔をして目を伏せ、男の盃に酒を注いでいる。那智はゆっくりと立ち上がった。
「那智様?」
「――お気にせず。ご不浄です」
短くそう告げ、部屋を後にする。廊下を出ると、三味線の音と酔った笑い声がやけに遠くに聞こえた。
(……どこかで、見た顔だったが…。妙だな)
花街で見かけた顔ではないというのは確かだ。新顔だろうか。それにしては、手慣れている感じだったが。
顎に手をやって首を捻っていると、向こうから遊女らしき影が歩いてくるのが見えた。
――何故だろう。きっとたぶん恐らく、いや、絶対、気のせいかもしれないが、見慣れた女に似ている気がしてならない。距離が縮まるほどに嫌な予感が走る。
何故、そのような考えが急に浮かんできたのかわからない。突拍子もないし、大分飛躍した考えだ。何を馬鹿なことをと鼻で笑ったところで、薄暗がりの中に女の顔が浮かび上がった。
そして、那智は声を失う。
「……お、」
「……」
「な…、なんで、お前、ここに」
「……さて、どなたでしょうか」
「……。てめえ、殺すぞ」
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