「……」
「静香! 待ってください!」
桔梗が静香の腕を掴み、引き止めた。静香の肩が少し上下して、息が軽く上がっている。桔梗は瞬きをして、静香の横顔を不安げに見つめた。……静香の様子が何かおかしい。
「……」
「静香…、一体どうしたっていうんですか?」
「……なんでもないわ」
「そんなわけないでしょう」
「……」
静香が唇を噛み締めて、目を伏せた。暫くして、桔梗はため息をついて静香の腕から手を離し、代わりに静香の手を握った。そして、そのまま、手を引いて歩き出す。
「桔梗…?」
「……今は、診察が急務ですから」
「……ありがと」
桔梗はそっぽを向いて、照れくささを隠すようにぐいぐい静香の手を引っ張った。
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「そんな怒んなって」
桃が何をそんなにおかしいのか、堪え切れぬ笑いを何とか堪えていた。それに対し、桔梗は困ったような苦笑を浮かべ、静香は眉間に皺を寄せ、何やら憤っている。
「白菊にゃ随分稼いでもらってっからな、親仁もそうそう手放したくねえんだろ」
「……白菊さんは、道具や物じゃないのよ?」
つい先刻、藍屋の楼主に、白菊の容態についてと、太夫として働けぬ体であることを伝えに行った帰りである。
静香は眉間の皺を更に深くして、尖った声を出した。
「女の医者に言われたことだから、なかなか信用できないっていうなら、わかるわよ。あの口調じゃ白菊さんの心配っていうより、お金の心配だわ。……もう、信じらんない!」
「……おもしれえ女だな」
桃は陰間茶屋の出入り口である藍の大門の前まで来ると、足を止めた。そして、桔梗の肩を親しげに叩き、耳元に口を寄せた。
「……いい女が近くにいると苦労すんなあ、桔梗さんよ」
「! なっ、」
からかうようにケラケラ笑った後、桃は大門を見上げた。
「俺達は人間であって、人間じゃねえ。男でもなくて、女でもねえ。……どちらかってえと、物だな。求められりゃあ、求められるだけそれに応える。自分の気持ちなんて二の次、三の次。まるで、人形ってな」
「……」
「お前みたいなやつはそうそういねえよ。……ほんと、おもしれえ」
桃は派手な手首に付けた装飾を揺らし、手を上げた。
「わりい。送って行きてえのは山々なんだが、これからお仕事があるからよ。こっから見送らせてもらうわ」
ひらひらと寂しげに手を振る桃に静香はそっと切り出した。
「……あの、桃ちゃん。白菊さんのこと、診察しに行ってもいい?」
「え、」
桃は目を少し見開いて、頭をかいた。
「べ、別に構わねえよ。あと、桃ちゃん言うな」
「……変わってるのは、静香だけじゃありませんよ」
桔梗は目を細めて、笑った。
「僕の知り合いも少々お節介が過ぎますし、はっきりいって人が良すぎる方ばかりです。……そして、こういう僕も、そんなお節介な方々に救われて今、ここにいます」
ずっと、闇の中にいた。ずっと、苦しかった。
あのままでいたのなら、僕はいつか壊れてしまっただろう。
「僕も、静香も、あなたのことが好きですよ」
「っ、……よくそんな恥ずかしいこと真顔で言えるな、お前」
桃は顔を赤くして、背けた。柄にもなく、照れているらしい。
「さ、さっさと行きやがれってんだ。何が好きだよ、馬鹿じゃねえのか…」
「じゃ、またねー。桃ちゃん」
「も、桃ちゃんいうんじゃねえっての!」
桃の弾んだような、怒鳴り声が辺りに響き渡った。
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