……あの人はいつも笑っていた。けれど、それは偽りで、本当は泣いていることを俺は知っていた。
何にもしてやれなかったけれど、俺はいつだって、あの人の幸せを祈ってた。
ずっと、ずっと、祈ってた。
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「葵」
「? どうされましたか、兄さん」
黙々と書き物をしていた手を止めて、書斎に入って来た兄を迎えた。兄、陽一郎の顔は不機嫌そのものだ。なにかあったなと、葵は直感した。
陽一郎がここまで不機嫌になることは唯一つしかない。……葵の母親に関することだ。
陽一郎は口を開いた。
「……俺はお前をかっている。政府のお偉い方の役立たず共より、遥かに頭がいいし、機転も利く」
「恐れ入ります」
「だが…、」
そこで、さらに憎たらしげな口調になった。葵は顔を上げ、陽一郎の顔を見た。怒りで口の端が震えている。
「っ、お前の母親が俺はどうしても好かん!」
「……」
「あの女は、誰のお陰でここに住まわせてもらっていると思っているんだ? ただ、寺門家の金を徒に浪費するだけの女を! 役に立つどころか…、邪魔だ!」
「……庇うわけではありませんが、」
葵は立ち上がり、荒く息をつく陽一郎の前に立った。
「あの人は、あの容姿を佐一郎さまに見初められた。ただそれだけですから、使い物にならなくても当然といえば当然でしょう。……そもそも、女に政治のいろはなど教えて任せるなど、それこそ寺門家の恥かと存じますが」
「!」
葵の容赦のない言葉に陽一郎の顔は見る見るうちに赤くなり、しばらくすると白っぽくなった。
「……言うようになったな、葵」
「……」
陽一郎はようやく、体裁を取り繕うと、そう喉から絞り出した。葵は深く頭を下げる。
「出すぎたことを申しました。お許し下さい」
「、っ!」
陽一郎の顔が歪んだ。葵の方が上手だと思い知ったのだろう。
「……それはそうと、上手くいっているのか?」
「御心配には及びません」
「……」
陽一郎は真意の読めぬ、血の繋がっていない弟に疑うような目を向ける。金は必要な分だけ使って構わないと、続けて言った。
「金で手を切るなり、何なりしろ。早いに越したことはない。……お前の婚礼前に、何が何でも済ませるんだ。いいな?」
「……承知しております」
葵は再び一礼して、兄を部屋から体良く追い出した。そして、肘掛椅子に体を預け、小さく笑った。
「……。俺もまた、あいつらと大差ないか」
そう、一人呟いて、葵は目を閉じた。
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