――俺は嫌いだったよ、姉さんのことが。
私はただ、嫌われたくなんてなかった。ずっと一緒にいたかった。
「……静香」
「なあに?」
静香が髪をすきながら振り向くと、戸の前に桔梗が立っていた。綺麗に整った顔を歪ませて、しかめっ面だ。
「……あの、本当に行くんですか?」
「勿論。何か文句でもある?」
「……」
あっさり言われて、桔梗はぐっと詰まった。
「医者なら、静香以外にもいるじゃないですか…」
「だから、どこも流行病で人手が足りないの」
「でも、」
「……桔梗」
静香がため息をついた。
「心配してくれるのは嬉しいけど、しょうがないでしょ?」
「……」
桔梗はそれでも納得いかなそうに唇を引き結んだ。
つい先日のこと。医学者である静香に応援の要請が来た。何でも、とある一帯で質の悪い風邪らしき流行病が蔓延しており、それを診る側であるはずの医者までも寝込んでいるという最悪の状況らしい。そこまではいいとして、その一帯というのが……、
「……。やっぱり、僕も行きます」
「桔梗…、いい加減にしないと、」
「だって、か、かかか陰間茶屋ですよ!? 静香一人じゃ何があるか!」
――陰間茶屋(かげまちゃや)。つまり、その一帯は、所狭しと男遊郭の店が立ち並ぶところなのである。
拳を握りしめ、大きな声を上げた桔梗に静香は白い目を向けた。
「……別に、遊びに行くんじゃないのよ? 桔梗くん」
「知ってます!」
「……」
さっきからこの調子だ。なかなか話が進まないのを遠くから眺めていた狼が片肘をつきながら、ふあああと呑気に欠伸をした。
「約束の時間過ぎるぞー、お二人さん」
「いいじゃん、保護者がついてると思えば」
「……どういう意味よ」
寝惚け眼をこすりこすりやって来た神城は静香に睨まれてちょっと首をすくめた。
「ほ、ほらっ! 用心棒だと思えばさあ…」
「仮にも、疾風隊三番隊を仕切らせてもらってるんだから、別に桔梗がいなくたって平気よ」
「……。あんた、仮にも女だろうが!」
思わず、カチンときたらしい桔梗が普段より低い声を荒げた。それに、狼は額を手で覆った。
「あちゃあ…、桔梗くん。それは言い過ぎ…」
「……仮にも?」
静香が額に青筋を立て、射殺さんばかりに目を吊り上げた。
「仮にもってどういう意味かしら? 桔梗!」
「え、いや、」
「……ものの見事に地雷踏んだな」
「だな」
神城と狼はすでに巻き込まれないように避難していた。そこへ、鈴鳴が誰かを引き連れてやって来た。
「? 何事だ?」
緊迫した空気に鈴鳴は目を丸くする。背後の壁に仰け反っていた桔梗が天の助けとばかりに鈴鳴の方を向いた。
「お、お客様のようですね!」
「? あ、ああ…」
鈴鳴の背後に隠れるようにして立っていた人物が申し訳なさそうに顔を覗かせた。まだ幼い顔立ちの少年は、きょときょと目を泳がせて恐る恐るといった感じで口を開く。
「え、えっと…藍屋の使いの者なのですが」
「……今、行くわ」
静香が玄関へとさっさと下りていく。その後を桔梗は慌てて追った。
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