「――確かに、俺なら出来ないことはないけど…、兄さんには嫌がられるだろうな」
「……無理にとはいわないわ」
「いいよ」
葵はあっさりそう承諾すると、静香に笑みを向けた。
「ほかならぬ姉さんの頼みだし」
「……ありが、」
「あ! そうだ!」
葵は声を上げて、ほっと息をつく静香の言葉を遮った。そして、無邪気な目で静香を見る。静香の顔が強張った。
「……俺も一つ、姉さんに頼んでもいい?」
「な、何?」
「それはね、」
葵が静香の耳に口を近づけ、何かを囁く。とそこへ、勢いよく扉が開いた。戸が吹き飛ぶ程の勢いに、静香と葵は思わず立ち上がった。
「も、申し訳ありません!」
「……何事だ?」
地面に這いつくばる様にして転がっている日下部の姿に、葵は目を剣呑に細めた。よく見ると、日下部の頬は赤く腫れ、唇に微かに血が滲んでいる。
「お前、殴られたのか?」
「……ええ。なかなか通して下さらないので、仕方なく」
日下部の代わりに静香のよく知った声がやけに淡々とした口調で応えた。日下部の体を跨いで、前方に出てきた人物、それは桔梗だった。
赤くなった拳を擦り、片手には物騒なことにクナイを手にしている。
「桔梗!? なんで、こんなところにいるの!?」
「静香、帰りますよ。って、」
目の据わった桔梗の視線が静香をとらえ、桔梗は何故か赤面した。
「な、ななななんて恰好してるんですか、貴方は!」
「何って、ド、」
桔梗はクナイを放り出し葵を押しのけ、静香に駆け寄ると、慌てて自分の半纏を肩にかけた。
「た、隊服はどうしたんですか!? なんで、そんな恰好に!? いや、似合いますけど、それにしたって露出が、」
「いや、それが無理矢理着、」
「……む、無理矢理!?」
今度は桔梗の顔が赤から青、白へと目まぐるしく変わった。手がわなわな震えている。
「ぼ、僕が下らないことで嫉妬したばかりに静香が傷物に、」
「ちょっ、ちょっと!」
なってないわよ!と目を剥く静香の声が聞こえていないのか、桔梗は静香を正面から抱きしめた。
「きっ、」
「……もう、絶対離しませんよ」
「違うって言ってん、もがっ!」
くぐもった声を上げてじたばたする静香を無視して、桔梗の細腕のどこにそんな力があったのか、器用にも軽々と肩に担ぎあげた。
「っ、桔梗! いい加減にして!」
ようやくまともに喋れるようになった静香が背中を叩いても、桔梗は涼しい顔をして素知らぬふりだ。
「嫌です。静香をこんな不潔なところになんていさせられません」
「さっきは勝手にしろって言ったじゃない!」
「さっきはさっきです」
「……不潔って、失礼だな」
桔梗に突き飛ばされて、ひっくり返っていた葵が床に胡坐をかいて、二人を眺めていた。口元は相変わらずの愛想のいい笑みを取り繕っていたが、額に青筋が浮いている。
「寺門家の屋敷に不法侵入した挙句に、俺付きの使用人に怪我をさせて、ただで済むと思ってるのか?」
「ただで済むとは思っていませんが、貴方も面倒事は避けたいでしょう?」
「……脅すのか?」
「ふふ、そう見えますか?」
葵は桔梗を睨みつけた。
現当主に気に入られているとはいっても、所詮、葵はよそ者だ。現当主である兄の機嫌を損ねるような真似は出来る限り、控えたいに違いない。
「……次はないと思え」
「懸命なご判断です」
桔梗は一礼すると、葵に背中を向けて歩き出した。その背を唇を噛みしめ、険しい顔で葵は見送った。
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