「……桔梗」

「はい?」

「先に帰ってて。ちょっと、その、寄るところがあるから」

陰間茶屋の一帯を抜け、もうすぐ疾風隊本部に着きそうだというところで、静香は口を開いた。なんとなく、歯切れが悪い。

「……。わかりました」と桔梗は返して、静香の横顔をちらりと盗み見た。

静香の表情は、戦を直前に控え、並みならぬ決意を固めた若武者さながらの凛々しさがある。どこに行こうとしているのか、大体のところ、予想がついた。

静香は歩みを止め、ここから曲がるからと桔梗の脇から離れた。静香の動きがぎこちない上に、よそよそしいのは、つい先ほどの一件が尾を引いているからだろう。


「そ、それじゃ、狼によろしくね」

「……こちらこそ、愛しの弟さんによろしく言っておいて下さい」

「!」

静香と目を合わせようとはしない桔梗の皮肉めいた口調に、静香は思わず、桔梗の顔を見直した。ふてくされている、という表現のまさしくそれだ。


「ちょっと、な、」

何なの?と言いかけた静香を遮って、桔梗は口を開いた。目が初めて、静香の方を向く。


「弟に会いにいくなら、会いに行くと言ったらいいじゃありませんか。わざわざ、言葉を濁したりして…、そんなに僕が邪魔ですか?」

「! たっ、確かに、葵に会いにいくつもりだったわよ。でも、別に桔梗に隠すつもりなんて、」

「……もういい。勝手にしろ」

人の気も知らないで、と桔梗は小さく吐き捨てる。そして、静香から顔を背けた。


「帰りが遅くなるようなら、使用人をつけて送ってもらうなり何なりしろ。多少、武術の心得があっても、女の一人歩きは剣呑だからな」

「桔きょ、」

引き止めようと声をかける静香の声を無視して、桔梗は去っていく。それを半ば唖然と見送っていた静香は我に返ると、小さくなる桔梗の背中に向かって怒鳴った。道行く人が一体、何事かと目を丸くして静香の方を振り返る。

「勝手なことばっか、言ってんじゃないわよ!! 馬鹿!!」








………………………………………………………………………………………………………





「……という話が人呼んで、早耳の平隊士、鉄くんから入ったんだが」

「……」

「喧嘩でもしたのか?」

穏やかに、狼はただただだんまりを通している桔梗に尋ねた。桔梗は正座をした膝の上においた自分の手を見つめるばかりで、先から一言も口にしない。

狼の耳に、疾風隊本部が面している表通りで、何やら、痴話喧嘩といえば可愛いが、疾風隊二番隊隊長と疾風隊三番隊隊長が言い争いをしていたらしい、との話が飛び込んできた。そういえば、表通りの、いつもながらの喧噪に似た騒がしさの中にそんな声が混じっていたような記憶がある。……まさか、桔梗と静香のことだとは思わなかったが。


静香に預けられた資料を紐でとじながら、神城は言った。彼の横には高く詰まれた本が山になっている。

「んにしても、珍しいよなー。桔梗と静香が、表通りなんて目立つ場所で夫婦喧嘩なんてさ」

「……」

「まあ、なんだ。喧嘩するほど仲がいいともいうし、なんだかんだいうつもりはないから、とりあえず、置いておくとして…問題の静香の姿が見えないんだが?」

「……っ…!」

狼の問いに桔梗の肩が揺れた。神城が製本していた手を止めて、目を瞬かせる。

「まさか…、陰間茶屋に置いてきた、とか?」

「……置いてくるわけないでしょう!」

突然、桔梗が大きな声を出したせいで、神城は動揺した挙句に本の山を崩してしまった。わたわたと積み直しながら、不機嫌な桔梗をなだめた。

「おっ、怒んなよ! そりゃあ、ないとは思ったけどさ…、ほんの冗談だって!」

「……冗談?」

「桔梗、落ち着け」

やれやれ、と、呆れたように鈴鳴がとりなした。

何かを察したらしい狼が苦笑し、話題を変える。


「……そういえば、静香と桔梗が出て行ってる間に、この前来た寺門、だっけ? そいつから使いがきたぞ」

「! 何ですって!?」

桔梗が目を見開いて、声をひっくり返した。その勢いに神城はまた山を崩す。

「あー…、最悪だ…。もういいかな、このままで…」

「日下部とかいう使用人がいうには、今宵、我が邸にてお待ちしておりますと葵様がとか言ってたな」

「今宵…、我が邸…」

「ん? 寺門って、」

顎に手を当て、唸り始めた桔梗を尻目に神城が呑気な声を出した。


「この間のボンボン?」

「ボンボンってお前な…、ま! そうなるかな」

狼が神城の露骨な表現に苦笑を浮かべた。神城はため息をつく。


「すげえ金持ちらしいじゃん、寺門ってさ」

「まあ、なんたって、貴族の中でも最上位に入る指折りのお公家様だからな」

「しかも、子孫を絶やさぬように美人な奥さんがいっぱいいるんだろ? 羨ましー!」

「おいおい…、それは前当主の佐一郎と現当主の従弟、伊織だけだぞ」

「伊織? ……ああ! あの、女好きで有名な!」

……女好き。その言葉に、ぴくり、と桔梗の眉が反応する。


「泣かせた女は星の数。美しければ下女だろうが、人妻だろうが手を出す。金があるやつのすることは違うねー!」

「感心するところか、普通」

鈴鳴が呆れた声を出す。不意に、鈴鳴の傍らの影が動いた。何だと視線を上げると、何やら難しい顔をした桔梗が立ち上がっていた。

「どうした、桔梗?」

「……急用が」

「は?」

ぼそりとそれだけ言うと、疾風隊本部を物凄い勢いで飛び出していった。


「何なんだ、一体…」

「……ま! あえて口出しせず、見守ろうな。諸君」

「? 何かよくわかんねーけど、とりあえず、ほっとけばいいんだろ?」

「ん。そういうこと」

狼は愉しげに目を細めた。







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