……葵が本部を訪れてから数日がたった。
「てっきり、忘れちまったのかと思った」
「……ごめん」
「静香さんは隊長さんなんだから、忙しいんだよ」
静香が目を伏せて謝ると、布団から起き上った白菊がやんわりととりなした。
「うるせえ。んなこたあ、わかってるよ。……ちょっとからかってみただけだ」
桃が唇を尖らせて、何やら落ち込んだ様子の静香に慌てて言った。
……舞台稽古に忙しい桔梗を置いて一人、静香は白菊の元を訪れていた。
今朝、白菊の薬がなくなりそうだと、桃が、疾風隊本部までわざわざ知らせに来てくれたのだ。葵とのことで頭がいっぱいであった静香にとって、桃が知らせに来てくれたことは幸いであった。
桔梗は静香を一人で陰間茶屋一帯にやることを大分渋っていたが、こう見えてやっとうはお手のものだと、桃が半ば強引に押し切る形で、静香は今、ここにいる。
「ったくよ…、あの兄ちゃん、過保護にも程があるっての」
「……」
桔梗が心配性なのはいつものことだが、それ以上に、葵の母親と鉢合わせしてしまうのではないかとそれを案じてのことだろう。
静香は桃に向き直り、礼を言った。
「今朝はわざわざ有難う。忙しかったんじゃないの?」
「べ、別に忙しくなんてねえよ。そりゃあ、抜ける白菊のせいで客が俺に流れてきて忙しいつったら忙しい…、」
「……僕も、桃には感謝してるよ」
目に見えて照れて赤くなっている桃に、白菊はどことなく気品のある仕草で頭を下げた。
「毎日、桃が顔を出してくれるおかげで、薬の飲み忘れもなかったし」
「え、そうなの?」
「、っ! ひ、暇だったから、死にぞこないの顔を拝んでやろうと思っただけだっ!」
桃は耳まで真っ赤にして口をぱくぱくさせている。静香と白菊は顔を見合わせて、吹き出した。
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「最近、具合はどうなの?」
「うん、昔に戻ったみたいに調子が良くて寝てるのが何だか心苦しいよ」
静香の問いに、白菊は苦笑した。確かに顔色も良いし、調子が良さそうに見える。だが、儚げな印象には変わりない。
桃はというと、客との約束があるらしく、引き上げていた。
白菊は、長い睫毛を伏せた。顔が曇る。
「親仁様に、寝ているのも申し訳ない、店に出させてほしいと言ったら、止められたよ。桃にも怒られた」
「……。それは、一時的なものだから…」
「うん。自分の体だもの、自分が一番よくわかってる」
白菊の横顔が寂しげに静香の目には映った。白菊は目を細めて、優しく笑う。
「この病気は、このまま、治らないんでしょう? 静香さん」
「!」
「隠さなくていいよ。なんとなく、わかってたから」
白菊は左胸に手を当てて、目を閉じた。
「……不思議だね。あんなにこの廓を憎んでいたのに、いざ出られるとなったら、苦しくって堪らないんだから」
「白菊、さん?」
白菊は両手で顔を覆った。声が震えている。
「人から蔑まれてきたこんな場所でも、僕が必要とされた唯一の生きる場所だった。そのことに、今更、僕は気づいたんだ」
「!」
白菊は静香の両肩を掴んで、揺さぶった。二重瞼の大きな瞳の奥に、すがるような光が見える。
「教えてよ。どうして、僕なの…?」
「……。白菊さん…、体に障りま、」
「、うして、僕が…っ……僕、は…、もう必要ないのかな…? だから、」
「違う!」
静香は叫ぶように怒鳴った。白菊の喉がひゅう、と一つ鳴って、荒い息遣いだけがその唇から漏れる。その背を擦ってやりながら、静香は言い聞かせるように口を開いた。
「違うわ。貴方は今でも必要とされてる。貴方は、ちゃんと愛されてるわ」
「……っ、そんなの、愛は愛でも偽りの愛だよ。それは売り物で、金さえ払えば手に入れられる品物と同じなんだっ」
額に脂汗を浮かべながら、白菊は苦しげに吐き捨てた。布団を掴む指の節が白くなっている。
「……孝太も桃も、貴方を心配してるわ」
「それが…、どうしたっていうの?」
白菊が自虐的な笑みを浮かべた。……その表情は、昔の"彼"によく似ていた。
「……桃も孝太も、僕のことなんて、きっとすぐに忘れてしまう。……僕は、独りぼっちだ。僕はどこにも行かれない、誰にも必要とされない。ただ、誰かのお荷物になるだけ」
白菊は静香を射るような目で見つめた後、静香の腰の物に視線を移した。震える唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……そうなる前に、僕を殺してよ」
「!」
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