long dream | ナノ



白粉花に水を



仕事で疲れていたはずなのに、全く眠れそうにない。
瞼を閉じて何度も寝返りを打っていたが、諦めて布団から身を起こす。
畳の上に置いたままだった記録ノートに手が伸びる。




「桃太郎さんに頼まれたんですよ」


鬼灯と別れる直前、彼はあたかもさっきまで忘れていたかのように言った。


「あの白豚の絵があまりにも酷くて観察記録の意味を成していない。スケッチだけでもいいから書き直してくれないか、と」


つい最近まで目にしていたあの落書きとも言えないスケッチを思い出す。
しかし、スケッチ自体は私が勝手に始めたものであって、本来は薬草の様子を記入するだけで良いのだ。
奴の絵など無視しておけばいいのに、それを放っておけない真面目さは桃太郎の長所の一つだった。
彼とは、白澤の留守を狙って辞表を出しに行った時以来、会っていない。

ノートを受け取ったまま何も言わないでいると、ふう、と鬼灯が目を伏せて息をついた。


「まァ、私が頼まれたのはこれだけなので、後は貴女の自由にして下さい」

「…………ええ」

「で、ここからは個人的な意見なのですが」


目が合う。
整った無表情の顔からは感情が読めない。


「白澤さんの下で働いている時の貴女が私は好みでした」


でも、どこか寂しさを含んだ口調で彼は続けた。


「柚季さんは、薬剤師が一番向いている」




開くつもりなど無かったのに、気付けばページを一枚一枚めくっていた。
私が時間をかけて丁寧にスケッチした薬草が数ページ続いたかと思えば、奴が描いた呪いのような絵が数ページ。
その繰り返しが終わる、つまり、私が辞めてからの記録は少ししか記されていなかった。
改めて見てみても、やはりフォローのしようのない気味が悪い絵。
書かれている最後のページを見るが、もはや見ただけでは何を描いているのかも分からない。
異様な曲線の先には、花だろうか、小さな物体がいくつか並んでいる。

花。

ふと、疑問が浮かぶ。
あの薬草畑にこんな形をした花があっただろうか。
ページを戻る。奴が書いた数ページの最後にはまた同じような絵。
どうやら記録の最後に毎回この花をスケッチしたらしい。


〇月×日
今日は綺麗に咲いたね。
「可愛い」って声を掛け続けると、もっと綺麗になるかな。


〇月△日
今日は元気が無かったね。
優しく頭を撫でてあげた。今度美味しいものを食べさせてあげよう。


震える手が、再び最新のページへと戻る。


△月□日
傷つけてしまった。
こんなにも愛おしく思ってるのに、どうやって伝えたらいいのか分からなくて。
馬鹿なことをしてしまった。
ごめんね。


「…………なん、て」


適当な羽織りを掴んで家を飛び出す。


なんて、馬鹿な人なんだろう。



地面の感触を覚えているほど、目を瞑っても歩けるほど、何度も通った道。
距離だって近いのに、到着する頃には息が切れ、立っているのもやっとだった。

うさぎ漢方「極楽満月」のすぐ近くの一帯は全て薬草畑だ。
その中でも高価なものは囲いをしてあり、記録をつける時は当然その囲いの中の薬草だけを見ていた。
しかし視野を広げると、囲いの外の薬草畑には少し雑草も紛れている。
そして、その雑草の中に小さな白い花を見つけた。
あの日、白澤の部屋で見た花。
見覚えがあったのは、記録の際にいつも視界に入っていたからだろう。


「洗澡花」


3ヶ月ぶりに聞く声は、まるで何十年も聞いていなかったかのようだ。


「名前を忘れるなんて、君にしては珍しかったね」


朝日の逆光で表情がよく見えない。
見慣れた白衣に三角巾のシルエットがゆっくりと近づいてくる。


「薬として使うにはちょっと難しい。何しろ毒があるからね。でも、甘い香りがあってとても綺麗に咲く」


すぐ目の前まで来る。
切れ長の瞳と、緩やかに弧を描いた唇。
いつもの胡散臭い顔。


「洗澡花。日本語では、白粉花だ」

「……馬鹿、じゃないんですか」


やっとの思いで声を発する。


「あんたが、こんな回りくどいことするなんて気持ち悪すぎる。白澤様、一体何を企んでいるんですか」


言っているうちに顔を見れなくなって、足元に視線を落とす。
喉はカラカラに乾いているし、呼吸も乱れたままだ。


「君はこの花に似ている」

「…………」

「好きだよ、柚季ちゃん」


顔を上げると、見たこともないような真面目な表情。

どうしてそんな顔するの。
店に来る常連客に甘い言葉を吐く時はそんな顔しない。
わざわざ記録ノートを使って。
こちらが気付くのを待って。
そんなやり方、白澤らしさの欠片も無い。
近付きたがる女性なんていくらでもいるのだから、
その豊富な知識を駆使して口説けばいい。花街に行けばいい。
そうやって。


ホントは君も僕にこうされたかったんでしょ。


そうやって私も、その中の一人にしようとしたんじゃないのか。



「……そんなの信じられない」


そう。
私は、疑っている。
何を考えているのか分からない、この神獣を。

私の言葉を聞き、白澤は残念そうに眉を下げた。


「うん、今までの僕の行動からだと仕方ないよね。でも絶対これから信じてもらえるようにするから」


だからさ、と大きな手で頭を撫でられる。


「戻ってきなよ」



その言葉を聞くと駄目だった。
ふわりと鼻をかすめる薬の匂い。
足が勝手に前へと進み、気付けばその胸に抱きついていた。


「…………私、も」


熱いものが込み上げてくる。
その先が言葉にならない。

溢れ出した涙を必死で隠そうとすると彼は私の頬に両手を当て、親指でそれを拭う。
そしてそのまま、ゆっくりと唇を重ねた。






「おはようございまーす」


「あ、柚季さん。おはようございます」


数日後、再び私はうさぎ漢方「極楽満月」で働き始めていた。
開店の準備をしていた桃太郎が微笑んで迎えてくれる。
上司の姿はまだ見えない。


「ああ……あの人ならまだ寝てますね」


険しくなった私の表情に気付き、桃太郎が呆れた口調で言う。
そんな彼に目配せしてそのまま台所を通り、奴の自室へと向かう。



「白澤様」

「…………」

「おいコラ、さっさと起き、ろっ!!」

「ぐふっ!!」


無防備な寝顔を晒し、だらしなく横たわっているその腹に思いっきり蹴りを入れる。
いつもより強い力だったようで、痩せた身体は良い音で壁に打ち付けられた。


「あのさ、柚季ちゃん……何度も言ってるけど優しく起こしてくれない?」

「分かりました。次からは台所のフライパン持ってきます」

「会話のキャッチボールしよう!?」


蹴られた腹をさすりながら体を起こし立ち上がると、にやにやとこちらを見つめてくる。


「でも昨日も衆合地獄には行かずに家で一人で飲んでたんだよ?」

「はいはいそうですか」

「柚季ちゃん」

「何ですか」

「今晩空いてる?」

「死ね」


あはは、相変わらず酷いなあ、と何やら嬉しそうに笑う上司。
私はこの人が苦手で、大嫌いだ。

でも、きっと、
これからもずっとこの人の傍にいるんだろう。

そんなことを考えながら、部屋を満たす甘い香りに思わず頬が緩んだ。


*end*



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