long dream | ナノ
鳴かぬ蛍
「お婆ちゃん、身体起こしますよー」
せーの、と声をかけながら、ベッドに横たわっていた老婦の背中を支え座らせ、
調理場から持ってきた昼食をテーブルに並べる。
「今日はお粥ですよ。タイソウっていうナツメの実が入っていて、腰とか足の痛みを和らげる効果があるし、
身体もあったまるから、頑張って全部食べましょうね」
高齢になると噛む力が弱まっていることが多いため、その食事は細かく柔らかくしたものが基本だ。
ふにゃふにゃになったお粥をスプーンの半分ほどすくい、口元まで持っていき食べさせる。
老婦はおいしい、と呟き、それから思い出したようにこちらを見る。
「柚季ちゃん、だっけ?あなた、やっぱりあの薬局で働いてたっていう噂は本当なの?」
次のひとくちをすくおうとしていた手を思わず止めてしまう。
「いえ、個人的に薬学に興味があったので勉強はしていましたが、全く別の仕事を」
「あらそうなの。でもこの仕事も随分と慣れてきたんじゃないかしら。いつもしてくれるマッサージ、とても気持ちが良いわ」
「ありがとうございます」
会話はそこで途切れ、老婦はお粥を食べることに集中した。こちらからもそれ以上は特に話題を出さなかった。
少しだけ開けた窓から見える景色は、確かに以前見ていたものとは違っている。
介護施設で働き始めて、3ヶ月が経っていた。
その日は遅番だった。
仕事を終え、疲れた身体を引きずって自宅へと向かう。
職場からの距離がかなり離れてしまったことに関しては未だに慣れないが、
引越しの手間を考えると仕方ないし、歩くこと自体はそれほど苦ではなかった。
人通りの少ない道に入ったところで、少しぼんやりとしていたせいか、前から来た人とすれ違いざまに肩が当たってしまった。
「おい、気をつけろ!」
二人組の男だった。天然パーマの頭から角が覗いている。
おそらく地獄から来た獄卒だろう。
「……すみません」
「お、よく見たら女じゃねえか、なあ?」
「まあ、ちょいと地味だが悪くねえな。おい、俺達とこれから飲みに行こうぜ」
二人の男が思ったことをそのまま口にしてくる。顔が赤く、酒臭い。
もう遅い時間であるから、今まで天国のどこかの店で飲んでいて、地獄に戻り二軒目に行くというところだろう。
面倒だ、と思う。
この類の輩は、断っても面倒であるし、断らなくてもそれはそれで面倒だ。
もうどうでもいい。諦めのような感情が芽生える。
「……まあ、少しなら」
行ってやってもいい、と言いかけたその時、見覚えのある長身が目の前に現れた。
「生憎、私との先約がありますので」
背中のホオズキの刺繍。
閻魔大王の補佐官が、お気に入りの金棒を持って立っていた。
恐怖で青ざめた顔をして男達が去っていくと、鬼灯はいかにも何か言いたげな様子でこちらを見下ろした。
目を合わせずに先に口を開く。
「鬼灯さん、こんな時間に珍しいですね」
「こちらでちょっとした仕事があったのですが、今日は思ったより時間がかかってしまいましてね」
それより、と顔を覗き込んでくる。
「あのような誘いに乗るとは…らしくないですね。貴女は女性なのですから気をつけて下さい」
「そうですよね……すみません」
彼の言う通りだ。
あのまま着いて行ったところで、ロクなことにならなかっただろう。
そんなことは分かっていたのに。
相変わらず視線を合わせない私に、少し呆れたような顔をして鬼灯が続ける。
「もしや、奴のところを辞めたことと関係あるのですか?」
顔を上げる。
怒っているような様子ではないが、こちらが何を考えているのか読み取ろうとしているのだろう。
前にもこんなことがあったな、と以前仕事で失敗した時のことを思い出す。
あの時もこの補佐官は、今のように私を問いただしていた。
黙ったままの私に、その表情のまま彼は言った。
「少し、飲みに行きませんか?」
鬼灯が連れて来てくれたのは、閻魔殿の近くの小さな飲み屋。
もうそろそろ日付が変わる時間だというのに、客はそれなりに居座っている。
店の奥のカウンターに座って、鬼灯が酒と適当につまみを注文すると、すぐに日本酒の瓶が運ばれてきた。
お互いに杯を持って小さく乾杯し、1口飲む。
アルコールの風味が口の中で広がり、改めて自分は酒が得意ではないなと思う。
そういえば、飲むのはあの日以来だ。
「今の仕事はどうですか?」
鬼灯が手酌をしながら尋ねてくる。
慌てて酌をしようとしたが、彼は片手を上げて首を振る。
「そうですね……」
あの人の店を辞めてすぐに、掲示板の求人募集の欄に出ていた介護施設に連絡した。
どこでも良かった。
新しく仕事を始めて忙しくしていれば、色々と忘れられる気がしていたのだ。
「まあそれなりに向いているとは思います」
「現世と同様に当然こちらも高齢化が進んでいますからね、介護施設は人手不足となっています。
貴女は十分な知識もありますし、さぞ活躍できるでしょう」
しかし、と杯を口元へ持っていきながら、その鋭い瞳は私を見据えた。
目を逸らしてしまいたくなる。
「実は私、以前から柚季さんは獄卒にも向いていると思っていたんですが…残念です」
「…………」
予想していた言葉とは違っていた。
呆気にとられたこちらの様子に気付いているのか気付いていないのか、向こうは新たに酒を注文するため店員を呼んだ。
その後も鬼灯は、私があの人のところ、うさぎ漢方「極楽満月」を辞めたことに対して、全く触れようとしなかった。
いつの間にか彼は勘定を済ませていた。
自分の分を払うと何度も言ったが全く聞く耳を持たなかった上に、私の自宅まで送ると申し出た。
二人並んで地獄から天国へ戻る。すっかり夜も更けていた。
「鬼灯さん、色々とありがとうございました」
家の前まで辿り着き、頭を下げる。
「いえこちらこそ、楽しかったですよ」
「ではまた……」
「あ、柚季さん」
戸の鍵を開けようとしたところで、バリトンが私を呼び止める。
振り向き、懐から取り出された見覚えのある物に目を見開く。
「何故それを……」
使い込まれた1冊のノート。
私と白澤が、毎日薬草の記録をつけていたものだった。
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