【海の外】


「……と」

 始め、蚊が啼いたのかと思った。

「そ……」

 それ程までに彼の声は小さく弱々しかった。

「そ……と……」

 しかし、それはちゃんと声だった。言葉だった。彼の声を聞くのは半年ぶりだろうか。アレから随分時が経っている。もはや懐かしい。

「と……」
「え、なんだい?」

 側に寄り、耳を傾ける。
 何を言っているのか知りたかった。ずっとだんまりを決め込んでいた彼が、ようやっと言葉を紡いだのだ。喉を動かし声帯を震わし、音を吐いているのだ。もう、壊れてしまったと思っていたのに。ちょっとした感動すら覚える。

「そと」

 今度は明確に聞き取れた。
 外。彼はずっとその二文字を囁いていたのだ。蚊の啼くような声で、無表情のまま、細々と。
 外と言うのは、この部屋の外だろうか。それとも、この屋敷の? 流石にこれだけでは判断に困る。

「外?」
「そと」
「外に行きたいのかい?」
「そと」
「何故急に?」
「そと」

 こりゃ駄目だ。思わず顔を手で覆う。人形になってしまった彼に言語能力は備わっていないのか。これではどうしようもない。偶には散歩も悪く無いと思ったのに。

「いったい外の何処に行きたいんだ」

 返答を期待せずも尋ねる。
 自分に何をしろと言うのだ。外に一歩出ればそれでいいのか? いや、それはないだろう。ああ、もう。せっかく気が向いたのに。

 そうため息を付いていると、思わぬことに返答があった。

「うみ」

 海。
 相変わらずの無表情で呟く。彼は海へ行きたいのか。何処の海だろう。近くの適当な海岸でいいのだろうか。乗りかかった船だ、連れて行ってやろう。どうせ、今の彼には何も出来ない。

「どこの海でもいいのかな?」

 尋ねると、彼の口元が少し緩んだ様な気がした。



「……さて、これで満足かい?」

 その後は簡単に身支度を整え、彼の希望どおり外へ出た。
彼の服も流石に花でなく、一応ちゃんとした物を着せてある。まあ、検査衣のような簡素な物たが。

 今、ここには二人しか居ない。護衛すらいない。本当は連れて行こうとしたのだが、彼が嫌がる素振りを見せた。不用心だとは思ったが、壊れた筈の彼の言動が気になってその通りにした。理由は特にない。あくまでなんとなくだ。

 ああ、でも。
 もしかしたら、これが風前の灯かもしれないと思ったのも、ある。
 ずっと無感情を貫いてきたのだ。それが急に動き出して。これでそのまま彼が息を引き取っても、不思議ではない。彼の最後の願いくらいは、きいてもいいかと思った。

「…………」
「…………」

 あれから彼はまた口を閉ざしてしまった。実につまらない。今はただただ、水平線の向こう側、熱く燃える夕日を見つめている。
 今の彼は何を考えているのだろう。それとも何も考えていないのだろうか。自分には分からないし、多分誰にも分からない。

 そして、ふと思い出した。

「そういえば、君にとって海は家のような物だったね」

 船を浮かべ、長いこと過ごしていた場所だ。
 だから人形となった最後、微かな意識で戻りたがったのかもしれない。パンドラも壊滅し、そこに船も何も無いのに。
 あまり興味は無いが、彼の人生にとってパンドラはそれほど重要だったのだと思うと少し、胃がむかついた。

「まあ、でもこういうのもいいね。僕の気が向いた時に君がまだ生きていたら、また来ようか」

 この静けさは嫌いではない。いつも遠くから口うるさく言われ続けた人生だ。もしかしたら彼が静かなのは、自分にとって好都合だったのかもしれない。音の無い世界は中々心地よい。

「そう? 僕はごめんだね」


 静けさは、突然に破られた。





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