【2022年 4月15日】


「みな、もと」

 兵部に異変が起きたのは、あれから一月ほど経っての事だった。

「どうした、兵部? ……兵部!」

 ベッドの中で横たわっていた彼は肌が熱っぽく汗ばみ、呼吸も酷く浅くなっていた。
 今にも息をすることを止めてしまいそうな、そんな姿を見て、ああ、これでもう最期なのだな、とそれなりに冷静に理解できた自分が妙に気持ち悪かった。

「みな、もと、みなも、と」

 やっぱり兵部は最期までこれ以外の言葉を覚えることは無かったな。僕なりに結構頑張ったのにな。鉛筆ばかりを気に入ってくれちゃってさ。

「大丈夫だから、兵部。大丈夫、大丈夫だから」

 大丈夫、か。何が大丈夫なのだか。彼はこれから死ぬのに。兵部のどんどん忙しなくなっていく呼吸音と対照的に、彼の鼓動を告げる機械音は吐き気を催すくらいに穏やかだ。
 でも、僕は落ち着いていないと。彼の最期だ。兵部京介としての人生は暫く前に自ら終えていたそうだから、今の彼はただの『兵部』。僕がひと月ほど世話をしてきた、少し頭のおかしい幼い子供みたいな、一人の老人。そんな彼の最期。彼を引き取った僕は、彼をできうる限り安らかに眠らせてあげる義務がある。

「みな、も、みな」

 ゆっくり汗ばんだ髪を撫で付けながら囁く。

「大丈夫、大丈夫」

 大丈夫だよ、兵部。

「みなもと、みなもと」

 僕も何十年かしたらそちらへ行くから。

「怖がらなくていい」

 どうしても、と言うのならいつものように子守唄でも歌ってあげようか。

「みな、みな……ここは、何処、だ?」

 ……ああ。

「何処だ、ここは? ここ、は」

 どうしてこんな時に、こんなタイミングで。最近はずっと出てきてくれなかったくせに。

『ココハ、ビョウシツ。オマエハ、ニュウインチュウ』

 でも、彼の弱々しく不安げな声を聞いたら、すぐに触れて黙らせるのも忍びなかったから。深く考える間もなく、僕は瞬時にスプレー缶を手に取っていた。

「そ、うか。この音、は?」
『シンデンズ』

 でも、ほんの少しだけだ。あの兵部京介はもう死んだ。この状態の彼は、それのただの残りカスに過ぎない。もう家族に別れを告げてちゃんと死んでいる彼はいいから、息を引き取る前に僕といっしょに過ごしたあの彼を、彼のままでちゃんと、眠らせてあげよう。

「ふ、うん。ぼく、は死ぬ、のか」
『……ソウダ』

 兵部の唇が自嘲気味に弧を描いた。さて、そろそろか。彼にはもう退場してもらおう。

「な、あ」

 彼の言葉を聞いている暇は無い。

『ナンダ』

 戯れに返答しつつも、細く骨ばった腕に手を伸ばす。

「ぼく、はね」

 それをあと一歩、というところで、彼自身にその手を取られた。

『ア……!?』
「憎い奴は、手の形まで覚えてんだよ」

 僕の息が止まるかと思った。

「ばーか」

 触れたのに、彼は、彼のままだった。


 兵部の腕はそのまま落ちる。カターンと、冷たい音がなった。
 心電図計も高い音を上げる。声も出せぬ間に彼は死んでしまった。兵部京介の全ては終わった。そうだ。そういえば僕は、僕だけは彼との別れを済ませていなかった。どうしてだろう。そんな事に、今頃気が付いた。

 管理官が僕にあの彼を預けた理由がわかった気がする。何故か酷く泣けてきた。落ちた兵部の腕をそっとベッドに戻してやる。彼の腕は汗のせいですでに冷たくなってしまっていた。窓の外には青空が広がる。小鳥の鳴き声だけが微かに聞こえるこの部屋。そう、それは穏やかな春の朝の出来事だった。





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