9話 ピーチ
「前髪伸びてきたな、切ろうかな」
左の手を使って前髪で遊んでいる葵が、唐突にそんな事を言う。独り言なのか問いかけているのか、出水には分からなかったが、耳に入ってしまったものだから無視するのも気まずい気がして話しかけた。
「鬱陶しそうだもんな」
葵は反応を貰うのが当たり前とでも思っていたかのように出水の方を向いた。相変わらず左手でくるくる前髪をいじりながら「そう見える?」と今度は明確に出水に話しかける。
「おう」
出水も今度は自分に向けられた言葉だとわかったから、葵の言葉を肯定するように頷いた深い事は何も考えてはいない。ただ鬱陶しそうに見えたのか事実だったので、そう答えた。
「んん、出水くんはどう思う?」
「何が?」
次に向けられた疑問に、出水は首を傾げる。葵は何故そこで出水の意見を求めるのか。ひとまず一呼吸おいて、葵の言葉を待つ事にした。
「切った方がいいと思う? もう少し我慢して伸ばしたらいいと思う?」
「自分で決めろよそんな事」
「出水くんの意見が聞きたいの」
葵が切りたいと思うなら切ればいい。伸ばしたいなら伸ばせばいい。そこに自分の意見などいらないはずだと、出水は思っている。我慢して、と言うくらいなら葵の意思は切る方に傾いているのではないか。ならば結論は出ている。出水が口を出す事ではない。
それでも葵は、意見を求めてくるのだ。出水が伸ばした方が良いと言ったら、葵は伸ばす心算でいるのだ。その理由は今の出水ではたどり着く事が出来ないし、葵も言う気はない。ただ少しでも、出水の好みを引き出したいと思うのはある種の乙女心というものだ。そういう感情を、葵は出水に抱いている。誰にも言った事はないが。
米屋は気付いている節がある。米屋が気づいている事に、葵も気づいている。知らぬは出水ばかりなり、だ。
「んー……切っても、いいんじゃね」
少し迷った末、出水はそう答えを出した。これが葵が望む答えであろうと思った。しかし葵の次の言葉は、出水を混乱させるには十分な内容で。
「短い方が好き?」
「……まあ、そうな」
「じゃあ切る」
葵は出水に問うてきた。葵の意思はひとまず置いて、出水が好きかどうか。何も迷う事はない。聞かれているのか髪型の話だ。それでも、出水は答えるまでに若干の時間を要した。そしてその答えを聞いた葵は、どこまで切ろうかと指で前髪を掴んで確認している。
「何でそんなに嬉しそうなの」
「へへへ」
あまりにもにまにましているので、思わず出水は問いかけた。しかし葵はそれには答えず、笑って誤魔化すのみだ。
「髪切んの?」
そこまで話した所で、米屋が出水たちの席までやってきた。米屋は何となく出水たちの話を察していたようで、葵にそう話しかける。葵も前髪をいじるまま、しかし口にしたのは髪の事ではなかった。
「米屋くん、おはよう」
「いや挨拶おかしくね。次今日の最後の授業だぞ」
そう。今日最後の授業は終わった。後は帰るのみである。部活に行く者、下校の準備をする者、それぞれが次に向かって行動を開始しようとしている。そんな状況で、出水と米屋、そして葵が、切り離されたようにだらだらと話していた。
「寝てたもんね?」
「よく見てたな」
「見えちゃうんだよ。ね、出水くん」
確かに米屋の席は出水や葵から見れば前の方の席で、見ようと思えば様子を伺う事は出来る。だが出水は態々そんな事はしない。別に米屋がどうしているか伺ったところで何になるのかわからないし、必要ないと思っている。
それでも葵は見ているらしい。それは、意識しているからではないのか。葵は米屋の事が好きなのではないか。いつだったか思った感情がリフレインする。二人がくっつくのをおめでたいと思いきれない自分の感情に、出水は複雑な気持ちになる。何故、こんな思いをしなくてはならないのか。
「おれは見てねえ」
「駄目だよ視野は広く持たないと」
「その広くした視野で米屋の動向チェックは視野の無駄遣いじゃね」
結局、当たり障りのない言葉しか返せなかった。嘘は一切ついていないので、まあいいだろう。そうしたら米屋が「それは酷くね?」と会話を被せてきた。酷いの基準がわからない出水は、その言葉に「米屋はまず寝るなよ」と真っ当な事を言い返した。絶対、自分の方が正しい事を言っているはずだという確信が出水にはあるし、実際その通りだ。
「仲良いねえ」
不意にいつの間にか前髪をいじるのを止めた葵が、二人の様子を眺めながらそんな事を言う。仲が良いのは認める。ボーダーでの隊は違えど同じ隊員、同じ歳、同じクラス。打ち解けている自覚はある。
「羨ましい?」
「どういう質問だよ」
米屋がからかうように葵に話しかける。葵とて米屋と仲が良い。出水とだってよく話す仲だ。友達、と言っていいだろう。だから今の会話の中の何処に羨ましいという感情を覚えるのかが、出水には分からなかった。
だから次の葵の言葉に、出水は固まる。別に固まる程の内容でもないのだけれど。
「そうだねえ、羨ましいかも」
葵は、そう言ったのだ。思わず「え」という声が出水から漏れる。それから、ああもっと米屋と仲良くなりたいという事だろうか、と思い至った。
それを知ってか知らずか、葵は言葉を重ねる
「私はボーダーじゃないから、二人の間には入りこめないよ」
「関係ないっしょ、ここ学校。おれらはただの高校生」
それに返したのは米屋だった。全くその通りである。米屋より先に言えなかった自分に、若干の苛立ちを感じた。そして何故こんな事で苛立つのか、出水は自分の感情が分からない。
「米屋くんは格好いいなあ」
ぽつりと葵がそんな言葉を零した。それがどういう意味なのか、出水はもう突っ込む事しなかった。きっとそのままの意味なのだろう。
ただ何だかもやもやする気持ちに名前を付ける事が出来なくて、心の葛藤から逃げられなくて。さっさと基地に行ってしまおうと、鞄を持ち葵に「じゃあな」とだけ言って教室を出た。ニヤニヤしながらついてくる米屋が、少しだけ煩わしかった。
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