42.涙の理由
家に帰省した次の日、教室にて。五条とは前日の夜に会っていたが、夏油と硝子とは顔を合わせる機会がなく、結果朝の教室で挨拶を交わした。教室に足を踏み入れたのは結希が最後だった。五条と違って結希の前日の行動を全く知らない二人は、それでも何があったのかも聞かず普段通りに接している。無駄な詮索をされない事は、結希にとって何よりも有難い事だった。
「それにしても、綺麗な目になったね」
硝子が自分の目を指さしながら結希に話しかける。オッドアイも良かったけど、と付け足した。一年以上一緒に居ても容姿に対して何か言われた事はなかったので、結希はどう返せばいいか戸惑ってしまう。
綺麗、なのだろうか。綺麗と言っていいのだろうか。結希の中でのそれは忌々しい以外の何物でもなかった。けれど硝子が言うと悪くないかもしれない気持ちになるのだから、現金なものだ。気をつかってくれている。けれど硝子が嘘を吐く人間でない事はわかっている。硝子だけではない、皆だ。
適当に逃げて簡単に嘘を吐く結希にとって眩しすぎる、そんな級友たち。少なくとも結希はそう思っている。後ろめたい。けれどそれを口にする事も出来ない。
「結希?」
「あ、ごめん……」
思わず顔を伏せた。自分が今どんな顔をしているか分からなくて、そんな状況のまま見て欲しくなかった。また逃げる。ずっと、逃げている。
呆れられてしまったろうか。ほんの少し顔を合せなかっただけで、距離感が分からなくなってしまった。どうしていたっけ、どうすればいいんだっけ。結希の感情が支配されていく。
ふと、クスクスと笑う声が聞こえた。何だろうとそっと顔を上げる。
「元気そうで良かった」
硝子がそっと、結希の顔を自分の両手で包みこむ。柔らかいその感触に、結希は心がじんわり温かくなるのを感じた。五条も夏油も、何も言わず見守っている。ここは同性の硝子が適任だろうと、判断しての事だ。
結希は仲間だ。それは、少なくとも三人にとってはこの先ずっと変わらない事実で。だからここで結希が心を閉ざす必要はないし、それを本人にも分かって貰いたいと思っている。絶対、結希にも伝わると、伝わって欲しいと言い聞かせるのだ。ここに仲間が居るのだと。決して一人なんかではないのだと。
結希は結希で、自己肯定感が薄まっているこの現状で、三人の態度と硝子の言葉はすとんと心に落ちてきた。こんなに気遣ってくれる。価値なんてないのに。どうして。友達だから。それだけ? それだけ。それだけで、この人達は、こんなにも無条件で優しさをくれて。こんなにも無条件で、甘やかしてくれる。
自分は本当にこの中に居ていいのかと、思わないわけでもない。けれどもう今の結希は、三人なしでは居られなかった。優しい級友。恋人は、一歩後ろで見守っていてくれている。
五条の顔を視界に捉えた時、気付いたら結希の目からは自然と涙が流れていた。
「え、あの……」
こんな事は結希自身初めてで。なぜ涙が流れるのかわからないまま、手のひらで零れ落ちるそれを拭う。しかし拭ったそばから涙は次々溢れてきて、結希は何も考えられなくなっていた。恥ずかしい、人前で泣くなんて。ただそれだけを思った。
昔はよく泣いていた。厳しい指導があって、いつも蔑まれて。ずっと隠れて涙を流していた。それがなくなったのはいつの頃だったか。ああ、もう一生分泣いてしまったから、もう涙は出ないのだろうと、そう思ったのを覚えている。
でも現実、そんな事はなかった。結希は自分で自分の心にブレーキをかける事を覚えただけだった。そのブレーキが、外れたのだ。人が持つ温かさに触れて、本来の感情を表現できるようになったのだ。
「違うの、違うくて」
「泣きたい時は泣いたらいいよ」
瞼が腫れてしまうのではないかという位ごしごし擦る姿に、夏油が声をかける。結希が如何に重いものを背負って生きてきたのか、詳しい事が分かるわけではなかったが、人目をはばからず泣けるまでになったのは良い事だと思った。
少なくともここが結希の居場所になっている事を感じ、安堵する。そんな夏油が五条に視線を投げかけた。後はお前の出番だ、と言わんばかりに。
「……っ、うう……」
結希はとうとう嗚咽交じりに泣き始めた。そろそろ夜蛾が教室にやってくる。どうすべきか考えた五条は、結希を連れて抜け出す、という所に落ち着いた。
それならばと、結希の手を取る。
「保健室、行くぞ」
そのまま半ば強引に立たせた。結希は素直に従い、二人は手を繋いだまま教室を後にする。一応、残る二人に上手く誤魔化して貰えるよう声をかけるのも忘れない。二人は言われなくとも、といった風に小さく頷いた。これで安心して抜け出す事が出来る。
誰も居ない保健室で、五条は結希をベッドに誘導する。結希はそこに腰掛けるが、寝る気はないようでまだぐすぐす泣いていた。その隣に、五条も腰掛ける。言葉はいらないと思った。だから、不器用な手つきで背中をさする。
どれくらい時間が経っただろう。少なくとも一限目はもう始まっていた。結希はやっと落ち着いたようで、五条に小さく謝った。
「落ち着いたか」
その言葉に頷く結希。五条はそうか、と一言返すと、背中をさすっていた手を回して、結希の肩を自分の方に寄せた。結希も素直に従う。
「無理に話さなくていいから。だから、素直にだけなれ」
そう言って結希の頭を撫でる五条。結希は至極安心したようで、何も言わずその行為を受け入れていた。きっと大丈夫。どこからか来る漠然とした不安を押し消すように、五条は結希の髪にキスをする。
結希の顔は、五条の位置からはわからなかった。