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15話 秒針と熱

 熱が出た。当たり前だ、といつきはぼうっとする頭で考える。小雨とは言え、あれだけの時間雨に濡れていたのだ。帰ってきてから一応タオルで全身を拭いてきちんと着替えたのだけれど、それだけでは対策として不十分だったのだろう。

 微熱だ。体温計が示している。けれど体は重く、起き上がる気力もなかった。ごろりと、寝返りをうつ。窓の外を見た。今日は晴れている朗らかな日差しが眩しくて目を細めた。いつきはカーテンを閉めない。いつでも外の景色が見えるように。二階にあるいつきの部屋からは、青く広がる空がよく見える。

 今日が休日で良かった、と思った。このまま世界が終わればいいのに、とも思った。そんな歌がどこかにあったな、と記憶を頼りに口ずさむ。何となく気分が良くなって、大げさな事を考えるものだと嘲笑。

 部屋には誰も訪れない。両親共に居る気配がしないから、きっとどこかに出かけているんだろう。それとも仕事だろうか。自分の情報収集の脆弱さに、いつきはまた笑ってしまう。家族の事ですら満足に分からない自分に、何が出来るというのか。

 もうすぐ雨の時期がやってきて、それが終わったらあっという間に夏だ。強い日差しに焼かれる日々が訪れる。夏はあまり好きではない。強い日差しに負けて、みるみる溶けていくアイスキャンディーのようにどろどろに溶けてしまいそうになる。形がなくなってしまったら、命もなくなってしまうような錯覚に陥るから、いつきはいつも夏から逃げている。けれど今年の夏は、これまでと違う夏になる気がしていた。大きな出会いがあったからだ。

「いつも此処に座ってるよね」

 少し前から公園の前で見かけるようになった一人の男性。話しかけられるとは思っていなかったので、最初に声をかけられた時は動揺したのを覚えている。心の揺らぎを悟られたくなくてなんでもないように返事をしたけれど、彼にはどう見えていただろうか。いつきには分からない。けれど悪印象ではなかったと思う。その証拠に、いつきはその日からこっち、魔法使いと名乗る彼とよく話すようになった。

 自分の事を魔法使いと言うなんて、変わった人だと思う。けれどいつきだって透明人間だ。普通ではない。普通ではない二人が話していた所で、なんら不思議はないように思えた。

「じゃあ、おれがその魔法、解いてあげようか」

 誰からも見えない魔法にかかっていると言ったいつきに、彼はそう提案した。突拍子もない話だと思った。何より、提案を受けた時点でのいつきは透明である事を肯定していた。透明でなくなる事など考えた事もなかったし、今のままが一番平和なのだと思っていた。

 けれど彼は魔法を解くと言った。力のバランスが崩れると思った。今のままで世界が正しく回るならそれでいいと思っていたいつきは、最初その言葉に頷く事が出来なかった。

「君の事も見えただろう?」

 そんないつきに、しかし魔法使いの彼は一歩も引かなかった。いつきに構っても何の得もない。お節介と自分の事を言った彼は、本当に善意だけで話しかけてくれたのだろうといつきは思った。
 そうして、そんな彼に心を動かされていた。普通の人間になりたいと、思ってしまった。思ってしまったら、後に引く事は出来なかった。透明であろうとしていた意識が、急激に変化していくのを感じた。

 感情にブレーキをかける意味で口にした一つの疑問。

「私の名前、分かりますか?」

 この時点でいつきはもう彼が魔法使いである事に疑問など持っていなかった。質問は、確認に近い。もし名前が分からなくたって見えているのだからいくらでも話は出来る。名乗る事が出来る。そんな存在である事が、もう魔法の力だと思った。そして彼は、見事名前を当てて見せたのだ。

 他人と話すとはこういう事だったか。長い時間閉ざしていた感情が沸き上がる。彼との会話はいつもどこか不思議で、楽しかった。

 そこまで考えて、ふと透明を肯定し続けるいつきがまた顔を出す。ここの所感情は大渋滞だ。彼と会って一歩ずつ進んでいる気になっていたのに、全部を振り出しに戻してしまうような。三歩進んで三歩戻る。唐突に訪れる感情は、いつもスタート地点までいつきを戻す。ここが始点であると同時に終点なのだと。いつきにはこの生き方しかないのだと。

 透明ないつきは、きっと魔法を信じていないのだ。魔法なんてこの世に存在しないのだと思っている。魔法使いは居なくても透明人間は居るのだという、傍から見ればよく分からない意識が常識として頭の片隅に沁みついている。認めてしまっている。
 だからいつきは、進めない。誰の手助けがあろうと、踏み出す事が出来ない。いつも手を引かれながら、足踏みをしている。

 変わりたいと思う心。今のままでいいと思う心。今の所いつきの心を変える事が出来るのは魔法使いの彼だけ。いつきを変える事が出来るのは、彼だけ。
 いつき自身気づいている。一人ではどうしようもない事。手を借りるのは悪い事ではない事。後はきっかけだけなのだ。人生ゲームの難しさを感じる。

ああ、魔法使いさんに会いたいな。もう一度寝返りをうちながら、そんな事を考えた。時計の針は、変わらず規則的な音を立てていた。


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