吐かない桜 4


あれは桜だろうか。
春には絢爛豪華な花を芽吹かせるとは思えない、安っぽくささくれた枝先が妙に寂しく映った。
あの時と同じく黒木田は窓越しに木を見上げている。
脳の奥底に焦げついた桜吹雪と血の鮮やかさは、どこを探しても見当たらない。
古ぼけた一室に我が物顔で忍び込む秋の寒気は黒木田の頬をちくりと刺した。
詩的ささえ覚える情景を眺めながら、唇に挟んだ煙草の紫煙をくゆらせる。そして背後で鳴り上がった、溝鼠にも劣るクズ男が古畳に叩きつけられる殴打音に、じっくりと耳を傾けた。
「テんメェ、払えませんやとぉ……フザけとんのかッ、おおッ!? こっちはきっちり400万揃えて払いさえすりゃ、それで良い言うとんのじゃアホんだらぁ!!」
「ひい、ひいぃ、れも、れも、お、お、おでは、」
「レモンもオデンもないんじゃクソがッッ!! クッサい種と一緒に万札まで売女の孔に注ぎ込みよったんは何処のアホか、そのチンカスな頭でよう考えてみぃ! お前じゃ、お、ま、え!」
お、ま、え、のリズムでクズ男の頭を鷲掴みして振り回すのは、部下である鍵沢だ。その小指の消えた左手は前職の薄暗い気配が窺えたが、黒木田はむしろクズ男の無様な泣き顔に興味があった。
横目で見た汚らしい絵面の誘惑に耐え切れず、本の挿絵のようなお綺麗な景色に背を向ける。
血と汗と涙と鼻水で構成された液体を顔面から垂れ流すクズ男の惨状は、空っぽの心に一粒の温かい水滴を落とした。
脳裏にはっきりと蘇る、冬木の顔。桜色の懐古に煙草が格段と美味くなる。
こうして冬木に会える快感は麻薬のように絶えず黒木田を虜にしていた。
あの時、失った存在の残り香を追い求めて黒木田はこの世界に踏み入った。誰かの殴られる顔を、罵られ恐怖に怯える顔を定期的に見られる職というのは、そうあるものではない。
ゆえに黒木田は生徒会長であった己の才覚を駆使し、この闇金業界でハロー・ファイナンスを立ち上げたのだ。
自らの落ち度を晒し、金の為なら床に頭を擦りつける男どもが無様に殴られ金を毟り取られて絶望するさまを見守るというのは正しく天職といって過言はない。
だがそこで大人しく受け入れれば良いものをクズ男は往生際悪く悲鳴じみた声を張り上げた。
「らって、お、おでは、もう返し終わったのに……そ、それに、トイチなんてぇえ!!」
トイチ。十日で一割。100万が十日後に110万。400万が十日後に440万。その凄まじくエグい金利は闇金業者ならば誰もが知る、醜くも美しい三文字である。
時は金なりを別の意味で表してしまうトイチだが、こんなものはまだマシで十日で五割のトゴという血も涙もない金利だって存在するのだから感謝してほしい位だ。
「返し終わったァ〜? 何ホラ吹いとんじゃボケェッッ!! どこに証拠があるっつぅんじゃ、証拠がぁ!」
鍵沢の拳と同じ方向にクズ男の歯が飛んでいく。
その白い放物線を見ながら黒木田は嘲るように鼻を鳴らした。
この男、以前の闇金業者から証明書を受け取るという重大事を怠っている。その一枚の紙切れは業者同士がタッグを組めば、めぐり巡って再び債務が復活してしまうという悪魔の一切れなのだ。以前の業者は「そんなモン知らん」と言うだけで切り取った金の数割を貰えるのだから拒否する理由もない。
今もクズ男の証明書はハロー・ファイナンスの金庫で眠っている。
忘れていたなら、ただの馬鹿。知らなかったなら、その尻に鴨がつく。
クズ男の喧嘩慣れしていないデカいだけの体がひしゃげていくさまを愉しく鑑賞しているとポケット内の端末がバイブレーションを起こした。
見れば、懐かしい男からの着信だ。
黒木田は鍵沢に後は一人で追い込むよう言付け、ぼろ一軒家を出た。
外はもう陽が落ちかかり、冬木の血のように空は赤く染められている。
玄関を出てから一歩進んだ所でクズ男の絶叫が耳に届いた。監督者がいなくなったせいで鍵沢の鬼畜っぷりに拍車がかかったのだろう。
お楽しみに立ち会うことが出来なかったと僅かばかり肩を落とし、黒木田は黒塗りのクラウンに腰をうずめた。


「久しぶりだな」
「……ああ」
人通りのまるでない高架下に、乃木坂はいた。
在学中、生徒会長であった黒木田にリコールを告げに来た風紀委員長、乃木坂。
あの頃より幾分、精悍になった頬筋が目につく。品の良い濃紺のコートと銀に輝く眼鏡のフレームは自身と違い、ハイソサエティな雰囲気を醸し出していた。
「まったく、検事サマは違うねえ。装いってやつがよ。お前に比べりゃ俺のスーツもカッパに見えるぜ」
学園の外に出てまで風紀をしている男は表情を張り詰めたまま、皮肉に頬を歪ませる黒木田を静かに見返した。
「検察事務官だ。三日後には検察官になる」
ひゅうと黒木田の口笛が響き渡った。
「そりゃ、おめでてえこった。昇進パーティでもご所望か? 親に匙を投げられた者同士、慰めあうか」
転校生にうつつを抜かした時期の在校生は今なお学園の恥として記憶されている。体面の為に学園に放り込んだというのに、名誉に汚泥を塗りつけて帰ってきた子を見放した親は多い。
当事者である黒木田は勿論、それを止められなかった風紀委員長の乃木坂も例外ではなかった。
「で、何の用だよ。珍しく連絡寄越しやがって。お前の名前、最後に見たのなんてリコールの呼び出し以来じゃなかったか?」
そう、あの呼び出しの後だ。冬木が黒木田の前から消えてしまったのは。
実のところ黒木田は今になっても、それを実感できずにいた。
無論、頭では理解している。
だがきっと世界の裏側かどこかで冬木は生きていて、冷酷な黒木田に恐れをなして逃げ回っているような気がするのだ。もしそうならその顔はひどく怯えきっていて、あんなクズ男などより余ほど魅力的に映るのだろうと想像し、陰惨な笑みを頬に浮かべた。
正面からそれを見た乃木坂が一瞬、痛がるように眼を眇めたが、すぐに能面のような貌を貼りつけ口を開く。
「黒木田。お前に……言わなければならないことがある。ずっと、言えなかったことだ。検察官になる前に全てを清算しておきたい。それを言う為だけに、お前を呼び出した」
「勿体ぶんな。さっさと言えよ」
高架上で大型トラックが通り過ぎ、怪物の唸るような騒音とともに冷たい風が両者の間に吹きつけた。
「……冬木のことだ。あいつの、真実だ」

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